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【読書感想】ルポ 教育困難校 ☆☆☆☆

ルポ 教育困難校 (朝日新書)

ルポ 教育困難校 (朝日新書)


Kindle版もあります。

ルポ 教育困難校 (朝日新書)

ルポ 教育困難校 (朝日新書)

内容(「BOOK」データベースより)
序列の下位に位置する高校は、貧困や家庭問題などの原因で、教育活動が困難になっている。しかし、学校や生徒たちに対して、侮蔑したり興味本位で語ったりすることはあっても、社会的な関心は向けられてこなかった。本書は、元高校教師である著者自身の体験をまじえ、重層性を持つ「教育困難校」の問題を多角的に考察する


 試験を受ければ入学できて、授業はまともに行えず、中退者が続出する、そんな高校が本当に必要なのだろうか?
 こんなことを書きながら、僕自身は学生としても親としても、そういう高校に直に接したことはなく、風評とか報道に基づいて、そう考えているだけ、なのですよね。
 この新書は、実際に「教育困難校」での勤務経験がある著者が、その問題点や存在意義について考察したものです。

教育困難校」では授業を始めることに大変な苦労を要する。授業開始のチャイムが鳴っても、教員が既に教壇に立っていても、多くの生徒は自分の席に着いておらず好きなことをやっている。廊下で友人とたむろしている者、教室内で友人と大声で話している者、机上にマスカラやリップを並べて化粧に余念がない者等々さまざまな行動をしているが、最近ではスマホに向かっている生徒が最も多い。複数の教員が廊下を巡回しながら「チャイムが鳴ったぞ。教室に入れ!」と大声で注意するが、「うるっせえな」などと小声で返しつつ行動をなかなか止めようとしない。
 周囲の喧騒をよそに、席に着いている生徒たちもいることにはいる。しかし、机の上には教科書などは置かれていない。席に着いている生徒の中には、主題歌を口ずさみながら「ポケモン」のキャラクターたちをノートに熱心に描いている男子生徒がいる。彼は、教室内の喧騒や教師の存在を一切気にせず、自分の好きな世界に入り込んでいるのだ。まるで身を縮めるかのようにひっそりと座っている女子生徒もいる。彼女の机上には珍しく教科書などが置かれており、周囲の喧騒を内心嫌がっていることを悟られるのを避けるかのように無表情を作って座っている。
 授業ができる状態にするために、教員は「こら~、〇〇、席に着け!」と生徒を名指しで注意する。一度席に着いた生徒がまたふらっと立ち歩くことも多いので、全方向に注意を向けながら何とか全員を席に着かせる。その次には出席の確認がある。このような学校では出席は単位認定の重要なポイントとなるので、慎重に取らなければならない。一人一人点呼し、返事をした生徒の顔を確認する。自分以外の点呼の際にも懲りずに何度も元気よく返事する生徒がいるのも「教育困難校」独特の光景だ。


 このほかにも、授業をはじめるまでに、スマートフォンを授業時間中保管する、などの手続きをとる学校もあり、授業を始めるまでに10分、20分かかることが当たり前なのだそうです。

 アルファベットが書けない生徒、「文章」を読むことができない生徒、試験勉強というものをやったことがない生徒……
 「学習障害」を抱えている生徒も少なくないのです。
 先生たちは、高校レベルには程遠い授業をしたり、定期試験では事前に「出る問題」をまとめたプリントを配布して、なんとか進級できるようにしていることが多いそうです。
 進学校で教えるのとは違った負担があるのです。

 例えば風呂の入り方がある。親や家族と一緒に入り身体や髪の洗い方などをある程度の年齢に達するまでに習得するものだ。さらに、家族旅行などの際に、他人と入る共同浴場のルールも学ぶものだろう。だが、住宅事情や家族構成の変化によって自宅で入浴する人が増えた分、個々の家庭によって身体や髪を洗う作法の差が大きくなったように感じる。加えて、これまでに、自宅以外の浴室に入る経験をしたことがない生徒も「教育困難校」には大勢存在する。
 実は、小・中学校でも林間学校や修学旅行の前には共同浴場に入る際のルールを指導している。それでも、数年に一回の指導・体験ではとうてい身に付かない生徒もいるし、本人か家庭の何かしらの理由で行事に参加しない生徒も相当数存在する。
 そもそも、日々の生活の中で入浴して身体を洗う習慣がない、洗顔や歯磨きをしたことがない生徒もいるのだ。
 あまりにも垢じみて異臭が漂うので、体育教官室のシャワー室で身体の部分ごとの洗い方をシャワーカーテン越しに教えながら表せる生徒が毎年数名は必ずいると、ある公立中学校養護教諭は教えてくれた。高校の養護教諭の中にも同様の指導をしている人がいるだろう。
 この他にも、食事の際の挨拶、食べかすや残り物の始末の仕方、洗濯や衣類のケアの仕方、郵便の出し方、銀行振り込みの仕方等々、生活する際の本当に基礎的なルールやスキルがわかっていない。これらが身に付いていないと、同級生からいじめや無視の対象になることもあるし、また、社会に出れば当然身に付いているものと見なされる。そのため、生徒思いの教員は彼らのスキル不足を気付いた際に、それを教えていかなければと必死になる。


 手続きのやり方を知らないと、生活に困窮したときに公的サポートを受けられない、ということもあるのです。
 サポートが必要になりやすい状況にある人ほど、アプローチする手段や知識を持っていないのです。
 親もできないし、知らないから、子どもに教えられない。
 学校に協力してくれない親の割合も多く、先生たちは本当に大変そうです。
 先生たちも、「教育困難校」に勤めていることに引け目を感じたり、生徒を力で抑えられる先生の力ばかりが強くなり、学究肌の先生は「役に立たない人」とみなされて自信を失っていく、ということもあるのだとか。
 「親もうるさくないし、受験に力も入れなくていいからラク」というわけではないんですね。
 というか、自分の好きな教科を教えたくて先生になった人には、つらい環境でしょうね……

教育困難校」にとって最大の存在意義は生徒に「高卒」の「資格」を授与することである。
 現在の日本では、アルバイトでも高校生以上、正社員での就職ではほとんどが高卒以上の学歴を求められる。「教育困難校」の生徒たちの大半は、とにかく高校生という身分になってアルバイトができるようになりたい、そして何とか卒業して「高卒」の「資格」を取りたいと思っている。
 確かに、「高卒」という学歴は社会に出る際の最低限のパスポートともいうべき存在である。その人がどの高校で、どのような3年間を過ごしたかの内容を問われることはほとんどなく、一定水準の能力があるものと見なされる。実は社会人が考える水準に達していない高校生も少なくない。「おつりの計算ができないのでバイト先を辞めさせられた」といった話や、高卒就職試験で「一般常識試験の得点が企業の設けた足切りラインより遥かに下で、第一次選考で落とされた」という話をしばしば耳にする。
 第2章で述べたような繰り上がりの計算がわからない、アルファベットが書けないという生徒たちは、教員が授業で教えることでは解決できない大きな原因を持っている。その低学力は3年間の高校生活ではほとんど改善されない。それでも、真面目に学校に通っている生徒であれば教員は特別な課題を与える等して何とか卒業を設定できるようにしている。
教育困難校」の「高卒」学歴は一定の学力の保障ではなく、家庭も学校も厳しい環境であるのに、そこで3年間我慢できた能力に対して与えられるものというのが実情だ。
 それでも、社会が求める「高卒」という学歴を持たせて卒業させることは、生徒たちの人生にとって大きな意味がある。


 高卒の資格をとるためだけに(相応の学力もないのに)高校に入学させる意味があるのか?という問いに対しては、今の日本では、まさに「高卒の資格をとるためだけにでも」高校に入学し、卒業することことが必要なのです。
 そして、「少なくとも、学校にいる間だけは、その若者が社会で問題行動を起こすリスクを減らすことができる」という面もあるのだと著者は述べています。

 日本の社会が劇的に変わらなければ、「教育困難校」には存在意義があるのです。
 高校に入るまでに、もう少しなんとなからないものか、とは思うのですが。


fujipon.hatenablog.com

見捨てられた高校生たち―知られざる「教育困難校」の現実

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