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【読書感想】リベラリズムの終わり その限界と未来 ☆☆☆☆

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)


Kindle版もあります。

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

内容(「BOOK」データベースより)
自由を尊重し、富の再分配を目指すリベラリズムが世界中で嫌われている。米国のトランプ現象、欧州の極右政権台頭、日本の右傾化はその象徴だ。リベラル派は、国民の知的劣化に原因を求めるが、リベラリズムには、機能不全に陥らざるをえない思想的限界がある。これまで過大評価されすぎていたのだ。リベラリズムを適用できない現代社会の実状を哲学的に考察。注目の哲学者がリベラリズムを根底から覆す。


 社会が「右傾化」し、リベラリズムが危機に瀕している……
 そう嘆息する「知識人」は多いのですが、リベラル派の肩身が狭くなったのは、本当に「自分のことしか考えなくなった人が増えたから」なのか?

 リベラルとは、その名のとおり「個人の自由を尊重する立場」の人たちを指す言葉だ。個人の自由を尊重するがゆえに、それを阻むもの、たとえば権力の濫用や不平等などを厳しく批判する。そうした立場の人たちが──個々の人間だけでなく、政党やメディアなどの組織も含めて──「リベラル」とか「リベラル派」などと呼ばれる。

 この新書は、「リベラリズム」とは何か?という定義からはじまり、「なぜ、いま、リベラル派とされる人たちが嫌われるようになったのか?」「今の世の中で、『リベラルであろうとすること』の限界」について丁寧に書かれています。

 弱者を助け、万人にとって生きやすい社会をつくろうとするのは、悪いことではないはずなのに、リベラル派の行動をみていると、なんだかイライラしてしまう……その理由がわかったような気がします。


 リベラリズムによって、さまざまな差別やハラスメントが告発され、多くの人にとって生きやすい社会がつくられてきたのは事実です。

 にもかかわらず、現代において「リベラル」といわれる人たちへの風当たりが強くなっているのはなぜなのだろうか。
 思い当たるふしがないわけではない。
 実際、口ではリベラルなことを主張しながらも、実際の行動はまったくリベラルではない、という人はたくさんいる。
 たとえば、私が所属している文系のアカデミズムの世界ではリベラルな主張を掲げる学者が多いが、そのなかには学生や大学職員、若手研究者に対してきわめて権力的にふるまう人も少なくない。
 また、政治の世界でも、リベラルを標榜している政治家や政党が「他人には厳しく、自分たちには甘い」という姿を見せることはよくある。つまり、政府や他党に対してはどんなささいなことでも厳しく批判するが、いざ自分たちに同じような批判が向けられると、とたんに居直ったり自己保身に走ったりする、という姿だ。
 こうした「いっていることと、やっていることが違う」という実態がリベラル派への批判を強めていることは否定できないだろう。
 とりわけリベラルな主張は、権力批判にせよ、弱者救済にせよ、理想主義的な響きをもちやすい。だからこそよけいに「立派なことを主張しているわりには行動がともなっていない。それどころかそれを裏切っている」というように、いっていることとやっていることの齟齬が目立ってしまうのである。
 口でリベラルなことを唱えているからといって、その人がリベラルな人間とはかぎらないのだ。


 「リベラル派」は、立派なことを言っているからこそ、反発を受けやすい、という面もあるんですよね。
 そして、他者からすると、「自分の都合の良い範囲にだけ『リベラル』にふるまっている」ように見える人も少なくありません。


 著者は、まず、こんな事例を紹介しています。

 アメリカのモンタナ州に住むネイサン・コリア―(当時46歳)は2015年6月、郡の役場にクリスティーンとの婚姻届を提出した。
 これだけならアメリカのどこにでもある話である。おめでたい話だ、ということで終わっていただろう。
 しかしこの婚姻届はちょっとした騒動を引き起こした。ネイサン・コリアーが提出したのは、二人目の妻との婚姻届だったからだ。


 いやいや、重婚、とか一夫多妻とか、「論外」でしょう、と僕は思ったんですよ。
 しかしながら、アメリカでは宗教上の理由などで、3万人から4万人が、一夫多妻生活を送っているそうです。

 では、婚姻届の提出を受けた郡の役場はその婚姻を認めたのだろうか。
 その結末を知るまえに、そもそも役場は二人目の妻との婚姻を認めるべきかどうか、考えてみよう。
 ポイントとなるのはやはり「同性婚が認められる以上、一夫多妻婚も認められるべきではないか」という問いである。
 この問いに「同性婚は認められるべきだが、一夫多妻婚は認められるべきではない」と答えることはなかなか難しい。とりわけリベラリズムの立場にたつならば、そう答えるのは困難だ。
 同性婚は近年、欧米諸国を中心に認められるようになってきた。
 その背景にはリベラリズムの考えが社会により浸透してきたことがある。
 すなわち、たとえ同性婚がこれまでの(男女一対一という)結婚の規範から逸脱するものであるとしても、本人たちがそれを望んでいて(つまりその結婚が強制されたものではなく)、かつその結婚が誰にも具体的な危害や損害を与えないのであれば、本人たちの自由を尊重すべきだ、という考えである。
 この「できるかぎり個々人の自由を尊重すべきだ」という考えが「リベラリズム自由主義)」と呼ばれる。
 要するにリベラリズムとは「他人に迷惑や危害を加えないかぎり、たとえその行為が他人にとって不愉快なものであったとしても、社会は各人の自由を制限してはならない」という哲学的原理のことである。


 著者は、一夫多妻婚は、伝統的な家族形態を重んじる保守派の人々にとっては不愉快なものだろう、と述べています。
 そして、「一夫多妻婚というと、男尊女卑のイメージがついてまわるため、リベラル派を自認するフェミニストのなかにも、これを不愉快に思う人はいるはずだ」と。
 

 たとえ一夫多妻婚が自分にとって嫌悪感や不快感をもよおすものであったとしても、それだけの理由でそれを望む人の権利を制限することはリベラリズムの原理に反するのである。
 こうした原理の重要性は、リベラル派が同性婚を認めるべきだと主張してきた論理を考えるなら、よりはっきりするだろう。
 リベラル派は同性婚についてこう主張してきた。「たとえ同性婚が一定の人たちにとって嫌悪感や不快感をもよおすものであったとしても、それが他人に具体的な損害や危害をあたえないかぎり、それを望む人の権利を制限することはおかしい」と。
 この論理が同性婚には適用されて、一夫多妻婚には適用されない、というのはおかしい。
 その場合はそれこそ「ダブル・スタンダード」という批判をリベラル派は免れえないだろう。


 傍からみると、「リベラル派」というのは、自分たちにとって都合の良いところにだけ「自由」を主張しているように見えがちなのです。
 この一夫多妻婚についても、当事者の気持ちを無視して、「一夫多妻は女性をないがしろにしている」という自分の価値観による決めつけ(パターナリズム)に陥ちがちなのではないか、と著者は述べています。

 ネイサン・コリア―さんたちの婚姻届がどうなったかは、この本を読むか、ネットで検索してみていただきたいのですが、リベラリズムを突き詰めれば、「なんでもあり」になってしまう、という可能性もあるんですよね。
 本人たちが望んでいるのなら、2対2での結婚とか、近親婚だって、「不快感を持つ人がいる」以上の迷惑をかけるものではないだろう、と。
 近親婚に関しては、障がいの発生率が高くなる、というのを禁忌の理由として挙げる人が多いのですが、著者は「それならば、高齢出産もリスクを高めるのだから、禁止すべきだ、ということになってしまう」と指摘しているのです。
 正直、ここまでくると、極論であるような気もするのですが、これを「極論」と僕が考えてしまうのも、先入観のなせるわざ、とも言えるわけです。
 「言論の自由」を唱えながら、自分に反対する人には不寛容な「リベラル派」も少なからずいますし。


 この本で指摘されている現代社会の問題点は、「弱者救済」「移民の受け入れ」「社会保障のさらなる充実」が、経済成長の停滞とともに、限界を迎えている、ということなのです。

 リベラル派は生活保護バッシングに対して「それは社会の福祉機能を弱めることにしかならない」と批判する。
 しかしこれはかなり表面的な見方だ。「生活保護受給者をバッシングしている以上、それは反福祉にちがいない」と素朴に考えてしまうようでは、政治的言説に対するリテラシーがあまりにも低すぎる。
 生活保護バッシングには、「反福祉」どころか、その制度を「もっと適正化すべきだ」という問題提起が込められている。そこに注目するならば、生活保護バッシングには「財源が限られているなかで生活保護制度をより確固たるものにしよう」という「親福祉的な」方向性さえみいだされるのである。
 そもそも、リベラル派は生活保護バッシングをおこなっている人たちを「不安定な雇用や貧困にあえいでいる人たち」とみなすが、これは一方的な決めつけだ。
 そこにあるのは、生活保護バッシングに込められた問題提起を無視するための無意識的な戦略である。すなわち「生活保護バッシングは不安定な雇用な貧困にあえいでいる人たちがねたみの感情からおこなっているものにすぎず、そもそもまともに耳を傾けるべきものではない」というレッテル貼りをすることで、そこに込められた問題提起を無視する、という戦略だ。
 この戦略は、「右傾化」している人たちを「厳しい生活環境から誤った考えにおちいってしまった人たち」と片づけることと同じ戦略にほかならない。
 これこそ「ズルい」戦略である。リベラル派への批判が強まっているのは、リベラル派が自分たちにとって都合のよい主張や解釈しかしないからでもある。

 
fujipon.hatenadiary.com


 この本を読むと、トランプ大統領への支持とともに、ヒラリー・クリントンさんへの反感の強さが伝わってきます。

 アメリカでトランプ大統領を支持している「中流階級だった白人たち」の、彼らの「自分で働いて食べていくこと」への強い意志には、清々しさも感じずにはいられないのです。
 彼らは、常に「福祉」ではなく「仕事」を要求しつづけています。
 しかしながら、彼らが望むような肉体労働で「中流の生活」が維持できたアメリカは、もうどこにも存在しない。


 オハイオ州マホニング郡の民主党委員長、デビッド・べトラスさんは、大統領選挙での敗北を受けて、著者に語っています。

──民主党は今後、どう変わるべきですか?

 
 配管工、美容師、大工、屋根ふき、タイル職人、工場労働者など、両手を汚して働いている人に敬意を伝えるべきです。重労働の価値を認め、仕事の前ではなく、後に(汗を流す)シャワーを浴びる労働者の仕事に価値を認めるべきです。彼らは自らの仕事に誇りを持っている。しかし、民主党の姿勢には敬意が感じられない。「もう両手を使う仕事では食べていけない。教育プログラムを受け、学位を取りなさい。パソコンを使って仕事をしなければダメだ」。そんな言葉にウンザリなんです。
 労働者たちに民主党は自らを「労働者、庶民の党」と伝えてきたが、民主党や反トランプ派はメディアを通じて(性的少数派の人々が)男性用、女性用どっちのトイレを使うべきか、そんな議論ばかりしているように見えた。私が選挙中に聞かされたのは「民主党は、私の雇用より、誰か(性的少数派の人々)の便所の話ばかりしている」という不満だったのです。


 「意識が高い人たち」が問題視していることと、「大衆」が直面している困難が、あまりにもかけ離れていることに、民主党支持者たちも、違和感を抱えているのです。
 

 高度経済成長の時代は、「パイ」がどんどん大きくなっていたから、多少のロスがあっても、多くの人に行き渡るように分けることができていました。
 しかしながら、人口が減り、成長が停滞していく時代に「不公正な配分」を容認していたら、自分たちの分がなくなってしまう。
 もっと「適正化」しないと、もしものときに、自分が助けてもらえないかもしれない。
 そう考えるようになっていくのは「不寛容」というより「当たり前のこと」ではないでしょうか。

 しかも、「リベラル」を標榜する政治家やハリウッドスターは、企業から多額の献金を受けていたり、多額のギャラをもらっていたりして、自分の生活は贅沢三昧なのです。


 僕は自分を「リベラル寄り」だと思っていましたが、この本を読んで、「リベラル派が嫌われるようになった理由」を思い知らされました。
 「自分に実害を及ぼさないことであれば、好きにして良いんじゃない?」
 確かにそうなのだけれど、「自分にとって(理由はどうあれ)不快であること」も「害」ではあるんですよね。

 

ルポ トランプ王国2: ラストベルト再訪 (岩波新書)

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