琥珀色の戯言

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【読書感想】しらふで生きる 大酒飲みの決断 ☆☆☆

しらふで生きる 大酒飲みの決断

しらふで生きる 大酒飲みの決断


Kindle版もあります。

しらふで生きる 大酒飲みの決断 (幻冬舎単行本)

しらふで生きる 大酒飲みの決断 (幻冬舎単行本)

内容紹介
痩せた! 眠れる! 仕事が捗る! 思いがけない禁酒の利得。
些細なことにもよろこぶ自分が戻ってきた!
4年前の年末。「酒をやめよう」と突如、思い立ち、そこから一滴も飲んでいない作家の町田康さん。
「名うての大酒飲み」として知られた町田さんが、なぜそのような決断をしたのかを振り返りながら、禁酒を実行するために取り組んだ認識の改造、禁酒によって生じた精神ならびに身体の変化、そして仕事への取り込み方の変わるようなど、経験したものにしかわからない苦悩と葛藤、その心境を微細に綴る。全編におかしみが溢れながらもしみじみと奥深い一冊。


 町田康さん、4年間も禁酒していたのか……
 思わず、「本当に?」っていう言葉が口から洩れてしまったのですが、30年間毎日飲み続けていた人が、なぜ禁酒することを決意し、それを4年間も続けることができたのか?
 大病をして、ドクターストップがかかったとか、身体が酒をうけつけなくなった、というのなら理解できるのですが、そういうわけでもないみたいです。
 
 僕はそんなに大酒飲みではないですし(というか、年齢とともに酒量は減ってきて、いまは職場の宴会で付き合い程度に飲むくらいになりました)、禁酒の参考に、というより、あの「酒仙」というイメージのある町田さんがなぜ?という興味で手に取ったのです。
 そういう「人が酒を飲む理由、飲まない理由」についての哲学的な考察としては、とても面白いし、町田さんの文体に引き込まれていくんですよ。

 でも、「どうしても禁酒したいので、この本からノウハウを学ぼう」という目的で読むと、「具体的な禁酒の方法やコツ」はほとんど出てこないので、参考にするのは難しいと思います。
 あまり「実用的」ではないんですよ。
 タイトルに「大酒飲みの決断」とあるのですが、世の中には「決断する」だけで、アルコールを止められる人がいるのか、という新鮮な驚きはありました。
 酒をやめられるかどうかは、技術ではなく、その人の運命みたいなものなのだと僕は感じています。
 そう言ったら、「運命じゃしょうがねえな」って、飲みまくってしまう人のほうが、多そうですが。

 私が酒飲みということは世の中にも知れ渡り、よく知らない人からも、「たいそう召し上がるそうですなあ」と言われた。名うての酒飲み、ということになったのである。
 さあそうなれば天下御免という訳ではないが、少々、酔っ払っていても、「ああ、あの人は酒飲みだから」ということで、風景として受け入れられるようになった。
 それをよいことに飲みに飲んで、差されれば必ず受け、差されなくても手酌で飲んで斗酒をなお辞さない生活を三十年間にわたって続けた。
 もちろんそれによってヘマをやらかすこともあった。師匠に当たる人に議論を吹きかけ破門にされたこともあった。友人と些細なことから口論となり長年の友情に終止符が打たれたこともあった。ご婦人に戯れかかり袋叩きにあったこともあるし、寿司屋で泥酔の挙げ句、「おまえの握り方はなんだ。私を誰だと思ってるんだ。私は本場パリの日本料理店でみっちり三日間修業をした人間だ。どけっ。手本を見せてやる」と言ってカウンターを乗り越えてなかに入り寿司を握ったことさえある。
 まったくもって命がいくつあっても足りないようなことばかりしてきたわけで、こうして改めて書きだしてみると背筋が寒くなる。
 また、いずれも酔余のことなので、醒めた後、記憶をたどって青ざめるのが常であったが、けれどもその都度、大伴旅人に思いを馳せて乗り切り、どうしても反省しそうになったときは、酒を讃むる歌十三首を念仏のように唱えて乗り切ってきた。


 この武勇伝(というか、迷惑行為、ですね……)を読むと、町田さんと一緒に飲むのは大変だったろうなあ、と思わずにはいられません。
 それでも、町田さんの素晴らしい作品の数々も、酒が駆動力であるのならばと、多くの人が考えていたのではないでしょうか。
 でも、酒をやめても、町田さんは作家として書き続け、作品を発表しつづけているのです。
「酒がないと……」というのは、酒を飲みたい、飲ませたい人たちの思い込み、だったのだろうか。


 町田さんは、内面の葛藤について、禁酒1年3ヵ月の時点で、こう書いています。

 そう、私は酒をやめてこの方、ずっと酒を飲みたいという思いに囚われていたし、いまも囚われている。
 というかはっきり言おうか。私はいまだって酒を飲みたい。飲みたくてたまらない。けれども飲まないで我慢している。なぜなら気が狂っているから。
 つまり酒を断つこと、というか自分がそんなおかしなことをしているということを認めたくなかったので、いままで意図的にこの言葉を使わないできたが、使ってしまおう、禁酒・断酒というのは常に自分のなかの正気と狂気のせめぎあいであって、飲みたい、という正気と飲まないという狂気の血みどろの闘いこそが禁酒・断酒なのである。
 つまり私はこの1年3か月の間ずっと闘い続けてきた。私は飲みたいという正気と闘い、また飲まないという狂気とも闘い続けてきたのだ。
 これを文学の世界では内面の葛藤と呼ぶ。


 この本のなかで、いちばん印象に残ったのは、町田さんが「自分は普通の人間である」と認識することが、酒を飲まないためのきっかけとして重要なのだ、と述べている部分でした。

 しかし、「自惚れるな、おまえは普通の人間だ」と言うと、大多数の人が、「私は自惚れていない。自分を普通の人間だと思っている」と言うだろう。
 しかし、ならば渋滞や列車の遅延、徴税などに怒りを感じることはないはずで、社会は個人を公平・公正に取り扱うべき、ということが、自分は公平・公正に取り扱われるべき、になる。ところが完全に公平な社会というものはなく、不公正はどこにでも簡単に見つけることができる。それを見て、自分は公平に取り扱われていない、損をしている。と考えることは容易というか、ついそういう風に考えて、「普通はこうではないだろう」と思ってしまう。

 そも人生は楽しいもの、または楽しむべきもの。


 という認識で、これを改めることが、認識改造のぎりぎりの肝要のところなのである。
 では、どのように改めるべきか、というとそう、そも人生は苦しいもの、と改めるべきなのだが、しかしこれまで、楽しいもの、または、楽しむべきもの、と考えていた人が一気にその段階に進むのはさすがに苦しいだろう、なのでとりあえず現段階では、


 そも人生は楽しくないもの。


 に留めておくことにしよう。


 人は、自分が世の中で正しく扱われていない、という憂さを晴らすという「大義名分」のもとに酒を飲む、あるいは、「人生を楽しむ」ために酒を飲む。
 そういうのは、思い込みでしかなくて、本来、人間はみんな「それなり」に扱われてしまうものであり、人生は苦しいものだと覚悟していれば、それを楽しくするために飲む必要はなくなるのです。

 ああ、たしかに誰しも、自分は普通の人間だと言いながら、とりあえず自分には人生を楽しむ権利がある、と思い込んでいるよなあ。
 結局、「自分は普通の人間」だと思っているつもりでも、やっぱり、自分にとって自分は「特別」なのですよね。
 もちろん、それが飲酒に結びつくかどうかは、人それぞれ、ではあります。

 自分を正しく認識することにより自分を切り下げる。そのことによって酒をやめることができる。なぜなら自分が不当に奪われていると思わなくなり、その分の楽しみを恢復しようとする心がなくなるからである。
 その他にも正しく自己認識することには多くのメリットがあるが、これには虚無退嬰のリスクが常に伴う。どうせ俺なんてつまらない人間だ。生き甲斐なんて幻想、人生に意味も価値もない。意味なく生まれ意味なく死ぬ。だったら生きていても仕方がないけれども死ぬのも恐ろしいからやむなく生きるか、はは。ヒマだから人の悪口とか言おうかな。はは、意味ないけど、みたいなことになってしまう可能性がなくはない。
 このことから、虚無退嬰に陥らぬためにはどうしたらよいかということのヒントが得られる。
 というのはそう、なにごとも極端はよくないということだ。


 町田さんの「飲酒っぷり」と「禁酒」は、まさにその「極端」なわけで、酒に対しても、バランスよく付き合えれば、それに越したことはないのでしょうね。
 
 禁酒のハウツー本としては効果に乏しいとは思いますが、人生とか幸福について、真面目に考えずにはいられなくなる本です。
 そういうことを考え始めるとキリがないから酒を飲んでしまう、というのも、わからなくはないのだけれど。


上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

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酔うと化け物になる父がつらい

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