琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

【映画感想】天気の子 ☆☆☆☆☆


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あらすじ
高校1年生の夏、帆高は離島から逃げ出して東京に行くが、暮らしに困ってうさんくさいオカルト雑誌のライターの仕事を見つける。雨が降り続くある日、帆高は弟と二人で生活している陽菜という不思議な能力を持つ少女と出会う。


www.tenkinoko.com


2019年、映画館での15作目。
平日の朝の回で、観客は50人くらいでした。

上映前に、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の予告が流れてきました。2020年6月公開予定、か……僕はそれまで生きていられるのだろうか、そもそも、これで本当に終わるのだろうか……


その2時間後、『天気の子』を観終えて、僕は思ったのです。
「ああ、『天気の子』は、『エヴァンゲリオン新劇場版』よりも先に、『エヴァンゲリオン』を終わらせてしまったな……」って。


news.yahoo.co.jp


このインタビューで新海誠監督が仰っている「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」という言葉が、ずっと気になっていたのです。
僕は「怒ってはいなかった」けれど、東日本大震災があって、「失われたものが非科学的なプロセスを経て回復される話」というのは、なんだかとてもご都合主義のように感じてもいたのです。
その一方で、映画だから、フィクションだからこそ、「救われる物語」には、人々を救う力があったのではないか、とも。


fujipon.hatenadiary.com
fujipon.hatenablog.com


語りたいことはたくさんあるのですが、今回はネタバレで語るとして、未見の方のために、ネタバレなしの概観みたいなものを書いておきます。
なんというか、観終えて、すごく「すっきりした」のです、この映画。
「人に迷惑をかけるな」から、「公共性」「国益」まで、同調圧力というか、他者に「自己犠牲」を強いる一方で、隙あらば他人の無垢(あるいは無知)を喰い物にし、「知らないほうが悪いんだ」とうそぶく賢い大人たちばかりの息苦しい世界に、風穴をあける、そんな映画なんですよ。
「描かれなかった面」を想像したくないというか、「ウルトラマンが怪獣を倒す際に、下敷きになった死んだ人とか家を壊された人もいるんだろうな」というような話でもあるんですけど。
この映画が、「爽快」なのは、そういうものをあえて描かなかったから、というのも事実です。
ちょっとズルい気もする。

 さて、ここから先はネタバレ感想になります。
 この映画を観た人、あるいは、観る気はないし、ネタバレされてもかまわないという人向けです。

 
 けっこう賛否が分かれる映画だと思うのですが、だからこそ、レンタルでもテレビ放映でも、一度観てみていただきたい、そして、気が向いたらこの先を読んでほしい、というのが僕の気持ちです。



 本当にネタバレですよ!!



 この映画の東京で降る雨を、僕はずっと不思議な気分で眺めていました。
 ああ、新海誠監督が降らせる雨は、なんでこんなに「本物の雨よりも、ずっと僕の心を雨模様にするのだろう?」と。
 描いている人は、本当に大変なんだろうと思うけど。

 そして、この『天気の子』の前半で描かれる東京は、ひたすら冷酷で、隙あらば相手が子どもであっても、ひたすら搾取しよう、という街なのです。

『天気の子』で、僕がずっと違和感を持っていたのは、「東京」にこだわり、どんなに打ちのめされても、地元に帰る、という選択をしなかった帆高が「東京で生きていこうとした理由」なんですよ。
 最後まで観てみると、両親と決定的なトラブルがあったわけでもなさそうだし。


 「その背景をあえて描かなかった」と新海監督は仰っているのです。
 たしかにそれを描くと「そんな理由かよ!」って、言う人が出てきたり、特別な人間の物語だと解釈されてしまうのは予想されるのだけれど、いきなり拳銃が出てきて、それを「お守りとして持っている」帆高という若者に、しっくりこなかったのも事実です。
 物語的に、「ふたりが公権力に追われる」というシチュエーションをつくりたくて、そのために拳銃が必要だったのでしょうけど、逆に言えば、そういう極端な小道具に興ざめしてしまうところもありました。

 局所の「晴れ」を求める人たちの「正しさ」がエスカレートして、帆高と陽菜の自由が奪われていくほうが「現実的」だったのではないか、とも思うのです。
 それでも、監督は帆高に「線路を走らせたかった」のだろうし、そういう身体性がないとドラマって面白くならないのかもしれない。
 
 帆高と陽菜の「これまで」を極力描かない一方で、風俗の求人広告や新宿のネオン、企業名が詳細に描かれているシーンには、ちょっと驚いてしまいました。
 誘蛾灯のように、人を吸い寄せる東京。
 未成年でも「稼げる方法はある」し、「お金さえ払えば、細かいことは言わない」東京。
 須賀さんは行き場のない帆高を拾って住む場所と仕事を与えてくれますが、「月給3000円」には、さすがに「うへぇ」って思いました。
 さすがにそれは搾取しすぎじゃないのか。
 須賀さんは、「自由な生き方を応援する」「若者を助けてあげる」ふりをして、その若さや無知を買いたたく大人たちのひとりでしかない。某有名プロブロガーもびっくりです。
(結果的には、最後の最後で、須賀さんは「ずるい大人として生きていくこと」を捨ててしまうのですが)

 正直、「東京なんて沈んでしまえ!」みたいな気分も、僕にはあるんですよ。
 あの街には、こういう「希望のフリをした絶望と搾取」が溢れているように感じられるから。


 まあでも、そういうのは東京に限った話ではなくて、世の中というのはシステムを維持するために、人が人を搾取するようにできている。
 そして、システムを理解していなかったり、そこから外れようとする者に、ペナルティを与えようとする。


 ただ、警察からすれば「銃を所持しており、発砲までした高校生」がいれば、そりゃ市民社会の安寧のために捕まえざるをえないですよね。
 こういう「わかりやすい弾圧される理由」がない『天気の子』を観てみたかった気がするのです。


 以前、サンデル教授の「正義の話」のなかで、こんな思考実験を読んだのです。

 もし、ひとりの少年をずっと地下牢のような場所に閉じ込めておくことで、その町のその他全員が幸せな状態を維持できるのだとしたら、町の人々がその少年を幽閉することは正しいのだろうか?
 もちろん、少年には何の罪もないものとする。

 
「お天気をコントロールできる人間」がいたとして、彼女が人柱として犠牲になれば、気象が安定し、多くの人が救われるとしたら……

 これまでの「物語」って、こういう「人柱」的な存在に対して、2種類の結末に至ることがほとんどでした。
 ひとつめは、「その人が自分を犠牲にしてみんなを救い、世界は平和になる」というもの。
 ふたつめは、「その人は犠牲にならないけれども、なんらかのアイデアやシステムの変更によって、世界は平和になる」というもの。
 例外的に、「その人も含め、世界は全滅する」というパターンもあったような気がします。


 物語のはず、フィクションのはずなのに、「みんなのために誰かが犠牲になること」は美化され続けてきました。
 ところが、この『天気の子』での帆高の選択は「世界なんかどうなってもいいから、陽菜を助ける」で、抜け道など見つからずに、東京は水没してしまうのです。そして、雨はいまだに止まない。
 個人的には、善いとか悪いじゃなくて、ただ、「美しい」と思ったんですよ、この結末。
 村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のラストシーンを思い出しました。


 武装島田倉庫かウォーターワールドか。海洋ものの映画は金ばかりかかってヒットしないと『パイレーツ・オブ・カリビアン』が大成功するまでは言われ続けてきたのだよなあ。


 愛はふたりを救ったけれど、東京は救われなかった。
 自分さえよければ、目の前の大事な人さえ助かれば、世界なんてどうなってもいい。


 いまキーボードを打っていて、「ひどいヤツだなこいつ」って思ったんですよ。
 ところが、『天気の子』という映画には、こういう生き方を肯定する力がある。
 それもアリなんじゃないか、という気がしてくる。
 これが「物語」「フィクション」の凄さなのでしょう。


 新海誠監督は「世界なんて滅んでもいい」と思っているわけではないはずです。
 「そんなことをしたら、みんなが迷惑だろ!」とプレッシャーをかけて、他人を操ろうとする力(あるいは「空気」と呼ばれるもの)に対して、「世界なんてどうなっても知るか!」「『世間』というのは、『あなた』でしょう?」と太宰治風に抵抗してもいいんだ、とは伝えたいのではなかろうか。

 いまの世の中では、そういう「自己犠牲を強いる力」が強すぎるから。

 世の中の「空気」でいえば、「陽菜ちゃん、かわいそうだけど、あなたが人柱になってくれれば、すべてが丸く収まるんだよね」なのでしょう。
 観客も、陽菜の自己犠牲に涙を流しながら、「伝説」として彼女を語り継ぐ。


 現実問題として、世の中には、「自由意志はさておき、みんなのために誰かがリスクを背負うことを求められる状況」が起こりうるのです。
 東日本大震災の際、福島第一原発で作業をしていた人たちは、まさにそういう存在でした。

 「そんな危ない作業を誰かに押し付けるなんて」

 ですよね、それはそうなんだ。
 でも、僕はあのとき、「(自分や身内、知人以外で)あの作業をやってくれる人がいてよかった……」と思わずにはいられませんでした。
 
 新海監督は「そういう状況が起こりうること」は百も承知のうえで、それでも、「人柱にならない選択」もあるはずだ、と考えているのです。
 そして、その空気をつくっている当事者たちが自分たちの責任を負わないまま、誰かに人柱になることを強要するシステムへの疑問を叫ばずにはいられなかったのです。

 僕はこの映画をみて、本当に「なんだかとてもスッキリした」のです。こういう形だからこそ、「今の世の中で、言いにくいことを言いきれた作品」なんですよね、きっと。
 世界がどうなろうと、自分の身の回りにある幸福を大事にしよう、というのは、けっして間違いじゃない。
 隣人を愛せない人が、全人類を愛せるわけもないから。
 ただそこで、「じゃあ、自分が幸せになるためなら、中学生に売春させても、誰かを人柱にしても良いのか?」という問いが頭に浮かんできて、ぐるぐる回ってもいるんですよね。


 愛にできることは、まだある「よ」。
(この曲、なんてあざといんだ……と思いながらも、うるうるしてしまった……)



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