琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー ☆☆☆☆☆

Dybe!の「大人の課題図書」に書かせていただきました。
ten-navi.com
「いちばん子どもに読ませたい本」を、大人にもぜひ読んでほしい。




Kindle版もあります。

大人の凝り固まった常識を、
子どもたちは軽く飛び越えていく。
世界の縮図のような「元・底辺中学校」での日常を描く、
落涙必至の等身大ノンフィクション。

優等生の「ぼく」が通い始めたのは、人種も貧富もごちゃまぜの
イカした「元・底辺中学校」だった。
ただでさえ思春期ってやつなのに、毎日が事件の連続だ。
人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。
時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり。
世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子と
パンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。

連載中から熱狂的な感想が飛び交った、私的で普遍的な「親子の成長物語」。


 僕は基本的に、「親が自分の子どものことを書いたエッセイや小説」が苦手なのです。
 良いことばかり書いてあれば「親の欲目」だと感じるし、ネガティブな描写には「自分の子どものことを、そんなに悪く描かなくてもいいのに……」と思ってしまう。
 椎名誠さんが、『岳物語』を書いたとき、モデルとなった岳くんが、いろんなところで、「あの『岳物語』の子」という目で見られ、「もう自分のことを書かないでくれ」と椎名さんに言ってきた、というのを聞いたこともあります。
 僕自身も、ネットで書くなかで、家族を話題にすることもあるので、偉そうなことは言えないのですが。
 
 そういうわけで、この『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』がさまざまな書評やTV番組などで話題になり、書店にこの黄色い表紙が並んでいるのをみても、なんとなく手に取る気分になれなかったのです。

 結局、こうして読むことにはなったんですけどね。

 わたしの配偶者は一貫して自分の息子を元底辺中学校には通わせたくないと言っていた。生徒の9割以上が白人の英国人だという数字を懸念し、うちの息子は顔が東洋人なのでいじめられると決めてかかっていた。英国の中学校は11歳から16歳まで5年間通う。それはとても長い時間だし、最上級生と最下級生の年齢差も大きい。肉体的にいじめられたりしたら、うちの息子は特に体が小さいので悲劇的なことになりかねないとい配偶者は言った。実際、往来でも外国人にレイシスト的な言葉を吐く中学生を見かけることがあったし、よく行っていた中華料理店の子どもが数年前に学校でいじめられて転校したこともあった。
 そこにいくとカトリック校は人種の多様性がある。南米やアフリカ系、フィリピン、欧州大陸からのカトリックの移民が子どもを通わせているし、実のところ、近年、移民の生徒の割合は上昇の一途をたどっている。いわゆる「チャヴ」と呼ばれる白人労働者階級が通う学校はレイシズムがひどくて荒れているという噂が一般的になるにつれ、白人労働者が多く居住する地区の学校に移民が子どもを通わせなくなったからだ。例えば、Mumsnetのような育児サイトの掲示板に行けば、学校選びの時期になると、ミドルクラスの英国人と移民が「あそこの学校は白人労働者階級の子どもが多いので避けるべき」みたいな情報をシェアしている書き込みを見ることができる。
 こういう風潮のせいで、昨今の英国の田舎の町には「多様性格差」と呼ぶしかないような状況が生まれている。人種の多様性があるのは優秀でリッチな学校、という奇妙な構図ができあがってしまっていて、元底辺中学校のようなところは見渡す限り白人英国人だらけだ。
 そういえば、学校見学会の帰りに、息子もぽつりと「ほとんどみんな白人の子だったね」と口にしていた。


 僕は、イギリスの中学校教育がどうなっているのか?なんて、考えたこともなかったのですが、この本には、「地元民と移民が共存している地域で、人々がどのように暮らしているのか」が「元底辺中学校」での出来事を中心に描かれているのです。
 著者の息子さんは、地元のカトリックの名門校に行くこともできたのですが、自由な校風(校内にレコーディング・スタジオがあり、入学翌日に、後日クラスで行うミュージカルのオーディションが開かれるくらい)をつくりあげようとしている「労働者階級白人の子どもばかりが通う、元底辺校」に魅力を感じ、そこに通うことにしたのです。それには、母親である著者が、この「元底辺校」を一緒に見学した際に好感を抱いた影響もあったのではないか、とも述べられています。自分が積極的に「元底辺校」をすすめたことは無い、とも仰っていますが、子どもって、そういう親の反応をみているものではありますしね。

 労働党が政権を握っていたゼロ年代に「チャヴ」という言葉が誕生し、英国で大きな社会問題となった。「無礼で粗野な振る舞いに象徴される下層階級の若者」とオックスフォード英英辞典が定義するチャヴは、くだんの高層団地のような場所に住む白人労働者階級の総称として使用されてきた。当初はBBCや高級紙まで躊躇することなく使用していた言葉だが、近年ではれっきとした差別用語として問題視されている。知識人たちは「彼らのファッションや生態をステレオタイプ化してレッテル貼りしてはならない」と言って忌避する言葉になっているが、実際に彼らのそばで生活していると、やはり彼らの見た目や暮らしぶりはあまり多様性に富んでいないことに気づく。
 そして断言しておくが、これは腫れ物に触るようなポリティカル・コレクトネス(PC)で回避しておけば解決できる問題ではない。
 問題の根元にあるのは、リアルな貧しさだからである。
 例えば、元底辺中学校に通い始めた初日、うちの息子は帰ってくるなりわたしの部屋に来て言った。
「休憩時間に教室で何人かの子と喋ってたんだ。『どんな夏休みだった?』って聞いたら、『ずっとお腹が空いていた』と言った子がいた」
 それから二週間ほど経った頃、今度は怪訝そうな顔で帰ってきた。
「ランチに使えるお金って上限があるの? 先生に呼ばれて『使い過ぎ』って言われている子たちがいた。僕は呼ばれなかったけど、一日の上限っていくら?」
 英国の公立校にはフリー・ミール制度があって、生活保護や失業保険など政府がらみの各種補助制度、または特別な税控除認定を受けている低所得家庭は給食費が無料になる。小学校は給食制でみんな同じ食事なので問題は発生しないが、中学校は学食制になるので生徒が好きな食事やスナック、飲み物を選んで購入することになる。現金は使わない制度になっているので、プリペイド方式で保護者の口座から引き落とされていくシステムになっており、フリー・ミール制度対象の子どもたちには使用限度額がある。新入生はつい使い過ぎ、学期が終わる前に使い果たしてしまわないよう、先生から注意されていたのだろう。
 息子が通っていたカトリック系小学校には、フリー・ミール制度を利用している子はほとんどいなかった。だから息子には、何のことだかわからなかったのだ。


 トランプ大統領を支持したのが、アメリカの「仕事を失いつつある中流労働者階級」であったように、イギリスでも、白人労働者階級の貧困が大きな問題となっているのです。
 著者は、息子さんが「元底辺校」に入学することによって、その最前線に置かれることになります。
 世界は全体的には豊かになってきているはずなのだけれど、「給食だけがまともな食事の子どもたち」は、日本にも、イギリスにもいます。
 
 子どもたちの「差別的な言動」に対する学校の対応や、授業の内容、水泳大会で目の当たりにした、公立高校と私立高校の違いなど、これだけ「格差を突き付けられる社会」で、子どもたちをどう育てていくべきか、読みながら考え込んでしまいました。
 それでも、現場の先生たちや親たちは、さまざまな行動を通じて、子どもたちに「前向きに生きる力」「他人を思いやる気持ち」を植え付けようとしているのです。

 この本では、ただ「問題点」だけが描かれているのではなくて、そんな中でも、力強く生きていこうとする子どもたちの姿が描かれています。

「時代遅れの反PC(ポリティカル・コレクトネス)な発言は本当によくないけど、その『時代遅れ』な部分を強調していじめるのもどうかと思うんだ」
 と息子は言った。最初はあまりにも差別的なことを言うのでダニエルと喧嘩したこともあったが、そのうち息子は彼と仲良くなった。で、ダニエルのレイシズム発言をうるさく諫めるようになったので、以前のようにあからさまな差別発言はない。が、いまでもやはりPC的によろしくない言葉をポロっと言ってしまうことがある。
SNSで『今日あいつがこんなことを言ってた』みたいに書き込まれて、わーっと広まり、ダサいとかバカとか言われ放題で、学校でも勝手にロッカーを開けて荒らされたり、体操服を盗まれたり……。もう彼と口をきく子もいないよ」
「先生たちは、そういう状況を知ってるの?」
「うん。ダニエルの両親が何度も学校に相談に来てる」
 息子はちょっと考え込むようにしてため息をついた。
「難しいんだよね。ロッカー荒らしや体操服の件は誰がやってんだかわからないし、SNSでひどいこと書かれるのも、そもそも彼の発言に問題があったからだと言われたらそれはそうだし、彼と喋らないのや無視するのだって、それは個人の好き嫌いの問題と言われればそれまでだし」
 息子と仲のいい友人グループの中にはダニエルを見捨てた子もいる。が、息子にしても、(ダニエルと取っ組み合いの喧嘩をしたことのある)ティムにしても、彼からダイレクトに差別されて衝突したことのある子たちは友達として残っている。
「ダニエルからひどいことを言われた黒人の子とか、坂の上の公営団地に住んでいる子たちとかは、いじめに参加していない。やっているのはみんな、何も言われたことも、されたこともない、関係ない子たちだよ。それが一番気持ち悪い」
 と息子は言った。
「……人間って、よってたかって人をいじめるのが好きだからね」
 わたしが言うと、息子はスパゲティを食べる手を休めて、まっすぐにわたしの顔を見た。そしてあまり見たことのない神妙な顔つきになって言った。
「僕は、人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。……罰するのが好きなんだ」


 この「いじめる」と「罰する」の違いについて、僕はしばらく考えていました。
 僕のなかでは、「自分が悪者になる『いじめ』ではなく、絶対的に正しい立場として、誰かを『罰する』のが好きだ」という解釈をしたのです。
 ネットで、デマを信じて芸能人を「炎上」させる人たちなども、おそらく、自分が傷つかない立場で、他者を罰したいのでしょう。そのほうが、ラクだし、自己嫌悪にも陥りにくい。
 
 この本を読んでいると、こういうことを、中学生が考えているんだなあ、と感心させられてばかりでしたし、「いろいろあるけど、若者たちの未来は、明るいのではないか」という気持ちになってくるのです。
 ちょっと「いい子」過ぎないか?なんて、思うところもあるのですけど。

 大人にできるのは、子どもの邪魔をしないことだけなのかもしれませんね。でも、それがいちばん、難しい。


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