琥珀色の戯言

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【読書感想】遅いインターネット ☆☆☆☆

遅いインターネット(NewsPicks Book)

遅いインターネット(NewsPicks Book)


Kindle版もあります。

遅いインターネット (幻冬舎単行本)

遅いインターネット (幻冬舎単行本)

内容紹介
インターネットによって失った未来をインターネットによって取り戻す

インターネットは世の中の「速度」を決定的に上げた。しかしその弊害がさまざまな場面で現出している。世界の分断、排外主義の台頭、そしてポピュリズムによる民主主義の暴走は、「速すぎるインターネット」がもたらすそれの典型例だ。インターネットによって本来辿り着くべきだった未来を取り戻すには、今何が必要なのか。気鋭の評論家が提言する。


 僕はダイヤルアップ接続の時代からインターネットを使っているのですが、いつのまにか、今のネットの「速さ」に慣れ、それが当たり前のことだと感じるようになっていました。
「遅いインターネット」という言葉に、「いまさらダイヤルアップやISDNには戻れないだろう」と思ったのですが、この「遅い」というのは、接続速度の問題ではないのです。


 著者は、序章で、こう述べています。

 そう、気づいたときは既に手遅れだった。それも、決定的に。
 いまこの国のインターネットは、ワイドショー/Twitterのタイムラインの潮目で善悪を判断する無党派層(愚民)と、20世紀的なイデオロギーに回帰し、ときにヘイトスピーチフェイクニュースを拡散することで精神安定を図る左右の党派層(カルト)に二分されている。
 まず前者はインターネットを、まるでワイドショーのコメンテーターのように週に一度、目立ちすぎた人間や失敗した人間をあげつらい、集団で石を投げつけることで自分たちはまともな、マジョリティの側であると安心するための道具に使っている。
 対して後者は答えの見えない世界の複雑性から目を背け、世界を善悪で二分することで単純化し、不安から逃れようとしている。彼ら彼女らはときにヘイトスピーチフェイクニュースを拡散することを正義と信じて疑わず、そのことでその安定した世界観を強化している。
 そして今日のTwitterを中心に活動するインターネット言論人たちがこれらの卑しい読者たちを牽引している。
 彼らは週に一度週刊誌やテレビワイドショーが生贄を定めるたびに、どれだけその生贄に対し器用に石を投げつけることができるかを競う大喜利的なゲームに参加する。そしてタイムラインの潮目を読んで、もっとも歓心を買った人間が高い点数を獲得する。これはかつて「動員の革命」を唱えた彼らがもっとも敵視していたテレビワイドショー文化の劣化コピー以外の何ものでもない。口ではテレビのメジャー文化を旧態依然としたマスメディアによる全体主義と罵りながらも、その実インターネットをテレビワイドショーのようにしか使えない彼らに、僕は軽蔑以上のものを感じない。


 建設的な議論の場になり、世界を変えることが期待されていたインターネットは、「いかにうまく失敗した人の悪口を言うかの大喜利会場」か、「極端な考えに染まった人たちが、自分たちの正義を確認しあう道具」になってしまっているのです。
 まあ、それもあまりに極論的なもので、実際は、何気なく中立的な意見にも触れているのだとも思うのですが。

 そう、問題を履き違えてはいけない。問題はなぜヒラリーはトランプに敗れたのか、なぜブレグジットは成立してしまったのか、ではない。民主主義というゲームは原理的にあたらしい「境界のない世界」を支持できない。ここに問題の本質がある。

 あたらしい「境界のない世界」を受け入れた「Anywhere」な人々はついこう考えてしまう。旧い「境界のある世界」の「Somewhere」な住人たちを説得するべきだと。「壁」を作ることも、EUから離脱することも、あなたたちの生活を救済することには必ずしもつながらない。むしろ逆効果をもたらすことすら考えられるのだ、と。しかしおそらくこの言葉は届かない。なぜならば、これは問題の本質を履き違えた言葉だからだ。賢く、意識の高いあたらしい「境界のない世界」の「Anywhere」な住人たちは、トランプの嘘を暴けば旧い「境界のある世界」の「Somewhere」な住人たちは、自分たちの側につくと考えがちだ。しかし問題の本質は別にある。トランプのアジテーションに嘘と誇張が多いことなど、実のところ誰にでも分かることだ。問題の本質は、にもかかわらず多くの人々が彼を支持していることなのだ。むしろ、こう考えたほうがいいだろう。彼らはトランプのアジテーションを「信じたい」のだ。彼らはトランプが真実を語るから支持しているのではなく、魅力的な嘘を語るからこそ支持しているのだ。


 著者は、意識が高く、グローバル化に適応していて、「もしアメリカ(あるいは日本)がダメになっても、世界中どこの国でも生きていける」という、「Anywhereな人々」に対して、「大きな組織に所属し、地元の頼るべき枠組みのなかで生きることを望む「Somewhereの人々」が感じているフラストレーションを「世界に素手で触れることが難しいという感覚」だと評しています。
 そんななかで、「Somewhereな人々」にとっては、「民主主義」を利用して、自分の街、あるいは国で、自分が支持した候補者が勝つことが、数少ない「世界に素手で触れる」ことになっています。

 たしかに、いまの世の中では、「グローバル化に適応している人々」と、「自分の手の届く範囲での『縁』に頼って生きている人々」のあいだに築かれた「壁」というのは、国境よりもずっと高いようにも感じます。

 そんななかで、多くの人は、ネットで「自分の物語」を綴るようになっているのです。

 ネットの中でも、「全世界に読ませるための言葉」を発している人と、「仲間とのつながりを確認するための発信」をしている人に分かれてきてもいます。

 実際のところ、世界のすべての人が、グローバル化に適応して、世界中を駆け巡って生きる、なんてことは、僕には現実的だとは思えない。
 これからの世界は「Anywhere」と「Somewhere」の対立が軸になっていくような気がします。


 この本のなかで、吉本隆明さんと糸井重里さんの思想と行動が分析されているのです。
 糸井さんの『ほぼ日刊イトイ新聞』が、「通販サイト」みたいになってしまっていることを、僕は「なんのかんの言っても、やっぱり稼ぎたいんだな」と解釈していたのですが、著者は、かつて、「モノを消費する社会」の申し子であった糸井さんが、「体験を重視する『コト社会』」が飽和してきたのを察知して、ふたたび「物語を付与したモノを持つこと」の価値に回帰しているのだと述べています。
 なるほどなあ、糸井さんは、コピーライターとして「モノ」を売ったあと、『MOTHER』というゲームや徳川埋蔵金で「体験」を人々に与え、そしてまた、「ちょっと高いけど、ストーリーがある商品」を売っている。つねに、時代の少しだけ先を行っているのです。

 そして糸井重里と「ほぼ日」は、この変化に他の誰よりも敏感だった。糸井はかつて自らが牽引したこの国の消費社会が終わりを告げようとしていることを極めて正しく、そして本質的に理解していたに違いない。その結果、気がつけば「ほぼ日」はEC(インターネット通販)サイトになっていた。僕たちは「ソーシャル疲れ」という言葉が普及する程度には、インターネット上に過剰にシェアされる「コト」の飽和に直面するようになった。特にスマートフォンの普及以降は、僕たちはTwitterで、Facebookで、LINEで24時間いつでも、どこでも誰かとつながり、「コト」で時間を潰すようになった。その結果として「モノ」に接する時間は希少な「誰とも(直接は)つながらない時間」として相対的に浮上することになった。情報社会からほどよく距離を取るためには、あえて「モノ」に回帰すればよい。それが糸井の時代に対する「回答」なのだ。


 著者は、この本のタイトルでもある「遅いインターネット」について、こんなふうに説明しています。

 なぜ「遅い」インターネットなのか。それはこれまで見てきたように、いまのインターネットの行き詰まりの原因はその「速さ」にあると考えるからだ。もちろん、「速さ」はインターネットの最大の武器だ。世界中のどこにいても即時に情報にアクセスできる。この「速さ」がインターネットの武器であることは間違いない。しかし、インターネットはその「速さ」と同じくらい「遅く」接することができるメディアでもある。インターネットの本質はむしろ、自分で情報にアクセスする速度を「自由に」決められる点にこそあるはずだ。1日単位で話題が回転する新聞やテレビや、週や月単位で回転する雑誌などと異なりインターネットは「速く」接することもできれば、「遅く」じっくりと、ハイパーリンクや検索を駆使して回り道して調べながら接することもできる。そんなメディアがいま、必要なのではないか。そこで、僕はいまあえて速すぎる情報の消費速度に抗って、少し立ち止まって、ゆっくりと情報を咀嚼して消化できるインターネットの使い方を提案したい。そうすることで僕たちはより自由に情報に、世界に対する距離感と進入角度を決定できるはずだ。


 「失敗した人をより早く、よりうまく叩いた者勝ち」というような脊髄反射的なインターネットではなく、しっかりつくられた、多少時間が経っても価値が薄れない良質のコンテンツを積み重ねていこう、というのが「遅いインターネット」なのです。
 たしかに、今のインターネットは、「速さ」ばかりが重視されて、「積み重ね」や「好きなときに観ることができること」が軽視されすぎているのです。
 ただ、僕は思ったんですよ。
 結局のところ、「遅いインターネット」に理解を示し、そこに参加できる人(あるいは、この本の読者になるような人)は、「anywhere」に属するのではなかろうか。
 意識が高い人たちが、その同調者の中で「変革」を訴えるのでは、今までと同じではないのか。
 そういう「棲み分け」は、仕方がないことなのかもしれないけれど、なんだかモヤモヤするのは事実なのです。


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