琥珀色の戯言

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【読書感想】扉はひらく いくたびも-時代の証言者 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

生い立ち、葛藤に直面した青春時代、名作『風と木の詩』『地球へ…』創作秘話、学問としてマンガを教えるという試み…時代と共に駆け抜けた、その半生を語りおろす。読売新聞連載時から大反響! 未知の表現に挑み続ける漫画家、竹宮惠子の決定版自伝。


 『風と木の詩(うた)』『地球(テラ)へ…』などの作品で知られ、2000年からは、京都精華大学の教授としてマンガを学生たちに教え、同大学の学長にまでなられた竹宮惠子さんの自伝です。
 もともと読売新聞に連載されていたものの内容を膨らませて単行本化したものなのだとか。

 僕は大学のとき、同級生に『地球(テラ)へ…』を借りて読んで、「女性向けマンガに、こんなSF、哲学的な作品があるのか……」と驚いた記憶があるのです。

 「少女マンガなんて、恋愛ものばっかりで趣味じゃない」と思い込んでいた僕は、半ば強引に「ならこれをぜひ読んでみて!」と貸してもらった(というか、けっこう強引に置いていかれた)竹宮さんの作品に、自分の無知を思い知らされました。

 1950年代~70年代の高度成長期に少女マンガ雑誌、それも毎週発売される「週刊少女フレンド」「週刊マーガレット」「週刊少女コミック」などが次々と誕生し、マンガの描き手が求められました。徳島から上京した私は、福岡から上京した萩尾望都さんと東京・練馬の大泉の長屋で一緒に生活しながら漫画を描きます。
 ここに若い漫画家、ファン、アシスタント志願者など様々な人が集まり、交流を重ねました。いつしか「大泉サロン」と呼ばれるようになり、多くの人気女性漫画家が生まれます。さながら手塚治虫先生たちの「トキワ荘」の女性版でした。
 
 当時、少女マンガの世界は、固定観念にとらわれていました。出版社の編集者は男性ばかりで、「女の子はこういうテーマや絵が好き」と決めつけていました。頼まれるのはそういう仕事ばかりでした。
 そんな中で、私たちは少しずつですが、無理やり扉をこじ開けていきました。私の作品で言えば、少年同士の愛と葛藤を描いた『風と木の詩』、人類による地球環境破壊やコンピューターが監視・支配する社会を描いたSFマンガ『地球へ…』がその代表格でしょうか。
 固定観念は男性のものだけではありませんでした。女の子たち自身も、少女マンガとはこういうもの、と凝り固まった考えを持っていました。私たちのマンガは、その見方をこじ開けていくことになるので、「開くかな」「どうかな」と、用心しながら話を進めていきました。
 マンガで革命を起こす──。私はそう決意して国立大学を中退し、この世界に入りました。
「革命」というと過激に聞こえるかもしれません。しかし、私たち全共闘世代にとっては日常用語でした。東大など、全国のあちらこちらの大学で、学園紛争が起きた時代です。
 世の中を良くするためには、何かを良くするためには、自分たち若者が改革をしていかなくちゃいけない。そういう考えが、多分、多くの大学生の中にあったと思うんですね。その時代の人たちは革命と言う言葉と親しかった、と私はお思っています。友人とのおしゃべりの中でも、軽く「革命」と口にしていました。
 私たちが集った大泉サロンが、革命の原動力になったかどうかはわかりません。ただ、「私たちが世の中を変えていく番だよね」という感覚を持った人たちが集まっていました。その人たちに、自分の考え方を応援してもらえる、同意してもらえるだけで力になりました。
 それから50年の歳月が流れました。やはり世の中は変わったと思っています。


 ああ、確かにこの50年で、いつのまにか世の中は変わった、あるいは、竹宮さんをはじめとする多くの人がすこしずつ変えていったのだなあ、と、あらためて思うのです。
 僕が子どもの頃だった40年前、いや、21世紀に入った、20年前の2001年と比べても、「常識」とされることは、大きく変わりました。
 「懐かしのキャラクター」がバラエティ番組で再登場すると「差別的だ」と糾弾されることも少なくないのです。
 マンガも、本当にさまざまな表現や手法が生まれましたし、「少年マンガ」「少女マンガ」「青年マンガ」も、内容より掲載誌によって区分されているのです。

 竹宮惠子さんといえば、マンガ界の「レジェンド」の一人ではあるのですが、アンケートでなかなか人気上位になれず、描きたいものを描かせてもらえなかった時代がけっこう長かったそうです。

 試行錯誤の末に『ファラオの墓』という作品で、「読者の心をつかむノウハウ」を身につけ、アンケートで上位を獲ったことによって、ようやく、『風と木の詩』の連載を勝ち取ることができたのです。


 『風と木の詩』と『地球へ…』を同時に連載していたときのことを、竹宮さんはこんなふうに振り返っておられます。

 『風と木の詩』の前に連載した『ファラオの墓』の頃までは、マンガの背景も含めて自分1人で描くことが多かったですが、途中からアシスタントに入ってもらうようになりました。『ファラオの墓には戦いのシーンがあり、モブ(群衆)を描くことが多かったので、その要員として頼みました。ただ、忙しいとはいえ、アシスタントの数が多ければいいわけではありません。3人が一番やりやすかったですね。それ以上だと、こちらの指示を出すのが間に合わないので、ゴチャゴチャになってしまいます。
 自分としては、連載を2本抱えて大変というよりも、『地球へ…』を描くことが、ガス抜きになっていました。『風と木の詩』は窮屈なマンガなので、それを描いているとストレスがたまりました。一方、『地球へ…』は、自由で何を描いてもいいような感じでした。
 SFは、前提となる価値観から自分で作ることができるのが面白いですね。今とは違う時代ということを前提にして、そこにいる登場人物の価値観も自由に作ることができるわけです。『地球へ…』では、今のように自由に生きている、自由に過ごしている人の方が珍しい時代を描いています。自由奔放っていうことが集団管理の中ではすごく迷惑なんだっていうことととか、そういうことを言ってみたいなって思ったんですね。


 これを読んで、高橋留美子さんが、『うる星やつら』を描いている頃は、並行して連載している『めぞん一刻』を描くことが息抜きで、『めぞん一刻』の息抜きは『うる星やつら』だった、と仰っていた、という話を思い出しました。


fujipon.hatenablog.com


 超一流のマンガ家というのは、「マンガを描き続けていても、息抜きができてしまう」のです。
 僕は以前、この高橋留美子さんの話を聞いて驚愕したのですが、竹宮さんもそうだったのか……

 竹宮さんは、50歳のとき、京都精華大学芸術学部マンガ学科の教授に就任されました。

 50歳という年齢は、マンガ家としては、まだまだ現役でやれる、というか、むしろ円熟期で良い作品が描ける時期だというイメージがあったのですが、竹宮さんは、もともと「人のものを教えるのが好きで、大学もマンガ家になれなかったら教師になろうと思って教育学部に入った」そうです。
 それに加えて、2000年頃の竹宮さんは、「依頼されたからマンガを描くような感じになっていた」とも仰っています。『風と木の詩』の時のような使命感がなくなって、仕事っぽくなっていた、とも。
 多くのマンガ家は「仕事として、頼まれたマンガを描く」ものでしょうし、依頼があることそのものが認められている証ではあるのです。
 でも、「革命の時代の子」だった竹宮さんは、『風と木の詩』『地球へ…』に情熱を注ぎこんでしまったがゆえに、創作者としては燃え尽きてしまったようにもみえるのです。

 竹宮さんは「漫画と著作権」について、こんな話をされています。

 漫画家にとって、著作権が保護されるのは、経済的には良いことです。しかし、文化的な視点で考えると、疑問もわいてくるんですよね。
 マンガというのは「オープンソース(公開情報)」なんです。誰かが最初に新しい表現方法を発明して使う。いいなと思ったら、皆がまねし、何かを付け加えていく。「集合知」です。純粋に著作権を振りかざす漫画家はいないと思います。誰かのまねをしていない漫画家は絶対にいないからです。
 そもそも経済的損失は別のところから生まれているように思えます。それは、昔のように気安くマンガを読めなくなっていることです。雑誌もマンガの単行本も立ち読みできないようにビニールなどで包装されています。立ち読みという行為ができなくなってから、マンガの斜陽化が始まったんじゃないかなと私は思っています。
 立ち読みをして、これはやはり自分の手元に置いておきたいと思って、その本を買う人が多いんです。読めなければそんな気持ちは起こらないし、マンガのファンにもならないと思います。
 音楽も同じです。著作権が厳しくなった頃から売れなくなりました。街で音楽を耳にすることが少なくなったことの影響でしょう。やはり日常的に聴いているから買いたい、という衝動が湧いてくるんです。その機会が減ってしまえば、売れなくなるのは当然です。不景気さというものは、そういうことが生み出しているんじゃないかなと思っています。
 一方、雑誌でマンガを読む楽しみも廃れてきているように感じます。かつてマンガは、雑誌で読むことを前提に描かれていました。しかし今では、漫画家が毎月仕事をできるようにするために雑誌が作られているかのようになっています。
 雑誌に掲載した連載をまとめて単行本にして利益を得る、というビジネスモデルのためで、それによって雑誌作りのポリシーが失われ、雑誌そのものを売ろうという姿勢が失われているような気がします。
 マンガなどの知的財産は、保護するだけでなく、利用促進とのバランスをはかっていくことが重要な時代になっています。そのためには大学で知財教育をする必要があります。教育ができていないから、どこまでが愛でる行為として許され、どこからが他人の権利を侵すことなのかがわからない。そこをきちんと教えておかないと、萎縮ばかりが先行することになります。
 だから教育をしっかりやってほしいと、知財戦略本部で私はよく言っていたんです。


 「保護と利用促進とのバランス」というのは、インターネット時代では、とくに難しくなっていると感じます。
 「立ち読み」に関しては、Kindleをはじめとする電子書籍のフォーマットには、「立ち読み」ができる作品も多いし、「1巻は無料」なんていうマンガも多くて、「タダや格安で読める作品」は確実に増えており、作品に対して「わざわざお金を出して読まなくても……」とも思うんですよね。

 竹宮さんが、権利者側でありながら、「保護するだけで良いのか?」という問題意識を持って活動されていることや、大学を退職後、パソコンを使ってのマンガ制作に取り組んでおられるには、すごいことだと思うのです。

 電子書籍が主流になることによって、これまでの「紙のマンガの伝統や手法」は途切れてしまう可能性が高いわけで、その「違い」を知っている実作者の意見が聞けるのは、貴重ですよね。

 正直、新聞連載+「本人の話をもとにしている」ということで、あまりドロドロした話は出てこないのが物足りないところはあるのですが、あらためて、この50年間のマンガと人々の「常識」の変化を考えさせられる本だと思います。


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