琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】透明な螺旋 ☆☆☆

シリーズ第十弾。最新長編。
今、明かされる「ガリレオの真実」。

房総沖で男性の銃殺遺体が見つかった。
失踪した恋人の行方をたどると、関係者として天才物理学者の名が浮上した。
警視庁の刑事・草薙は、横須賀の両親のもとで過ごす湯川学を訪ねる。

愛する人を守ることは罪なのか」
ガリレオシリーズ最大の秘密が明かされる。


 これ、加賀恭一郎シリーズでやればよかったのに……
 それが、読み終えての僕の感想でした。
 湯川先生は、なんというか、こんなに「人間味」が前面にあふれてくるようなキャラクターじゃなくて、もっと事件に対して他人事で、難しい科学知識を駆使して、難事件を「じつに面白い」とか言いながら解決していく人のはずなのに。

 そういう意味では、直木賞を獲り、映像化でも高く評価された『容疑者Xの献身』は、湯川学シリーズの分岐点であり、あの作品の成功が「クールなようで人間味もある湯川学」路線に向かってしまったきっかけでもあった気がします。
 初期の『ガリレオ』シリーズの短編集を読んだときには、「なんか科学を利用したトリックだけが売りの、軽いミステリだな」と思っていたんですけどね。
 結局、読者というのは(というか、僕というのは)、何に対しても「なんか違う」と言いたくなってしまうだけなのかもしれません。
 
 この本のオビに「今度のガリレオは『驚き』のステージが違う」と書かれていて、確かに僕も驚いたのですが、その驚きというのは、「東野先生、『ガリレオ』でこういうやり方を使って、ドラマをつくろうとしてしまうようになったのか……」だったのです。
 このシリーズも長く続いていますから(途中、湯川先生がアメリカに留学してお休みしていたこともありました)、登場人物が年齢を重ねていくことは不自然ではありません。とはいえ、親を介護する湯川先生の姿に、たぶん作中の湯川先生と近い世代の僕は「共感」とともに、フィクションの登場人物が年齢を重ねていくことへの違和感というか、「フィクションだからこそ、湯川先生には、あの湯川先生のままでいてほしかった……」という感傷もあったのです。
 ああ、湯川先生も、僕も、東野圭吾先生も、年を取ったなあ。そして、ロジックじゃなくて、「人情」で読む、読ませるようになってしまったなあ。

 この『透明な螺旋』、かなり御都合主義な展開が目につきますし、「どこかで読んだような話なんだけれど、湯川先生や草薙刑事、内海刑事が出てくるから読み進められる」のも事実です。馴染みのキャラクターの魅力というのは、やっぱり大きいし、これまでの『ガリレオ』シリーズを読んできた人であれば、「こういうのじゃないんだけど、この作品だけ読まない、というのも居心地が悪い」。

 そもそも、いろんなことが、あまりにもうまくいきすぎているというか、いまの警察の捜査能力って、こんなに杜撰なものじゃないだろう、とも言いたくなります。
 なんともいえない後味の悪さ、というのは、東野さんのお家芸でもありますし、「人を傷つける真実」をどう扱うか、それでも「真実は真実」だから、相手に、あるいは社会に伝えるべきか、というのは、答えが出ない。
 
 ドラマや映画として映像化されたら、それなりに絵になりそうな話ではありますが、逆に言えば、そういうドラマチックさに対して斜に構えているのが、『ガリレオ』ではなかったのか、とは思うのです。
 「人間味」をスパイスとして使うのが悪くはないのでしょうが、この『透明な螺旋』は、スパイスをふりかけまくって、ミステリとしての謎解きとか展開の凡庸さという「料理そのものの出来の悪さ」をごまかしているように感じます。

 でも、久々に東野先生の本を読んだのですが、やっぱり読みやすさというか、リーダビリティの高さはすごい。
 単行本で300ページくらいなのですが、本当にスラスラと最後まで読み終わることができました。
 途中で読み返したり、頭の中を整理したりしなくても済み、読み終えた、という満足感が得られて、エンターテインメント性も備わっている小説って、そんなに多くはありません。

 シリーズにここまで付き合ってきた人は読むでしょうし、それ以外の人には「単行本だと割高で、文庫化されてから読むとまあ納得、というくらいの作品」だと思います。
 しかし、湯川先生が『相談役・島耕作』みたいになってしまうのは、あまり見たくないな……


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