琥珀色の戯言

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【読書感想】「山田五郎 オトナの教養講座」 世界一やばい西洋絵画の見方入門 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

ムンクの『叫び』は何を叫んでいるの?」「ミレーの『落穂拾い』はなんで落ちた穂を拾っているの?」など 名画の気になる疑問を山田五郎氏が愉快に解説。

面白くて教養もつくと大人気(登録者数43万超 2022年8月現在)のYouTubeチャンネル「山田五郎 オトナの教養講座」待望の書籍化です。
人物相関図&年表付で、各画家を時系列でまとめてあるので西洋絵画史の流れがわかりやすく、動画とも連動。
西洋絵画初心者からファンまで幅広く楽しめる一冊です。


 山田五郎さんといえば、僕にとっては『タモリ倶楽部』のイメージがすごく強いのです。山田さんは、2021年の1月7日にYouTubeチャンネル『山田五郎 オトナの教養講座』と開設されていて、YouTuberとしても活躍されています(僕はこの本を見つけたのがきっかけで、山田さんのYouTubeのことを知りました)。

 正直なところ、「オトナの教養」とか、「世界一やばい」とか、「絵画の見方入門」とか、ああ、なんかありがちな「バズりそうなフレーズ」を詰め込んだお手軽知識の詰め合わせなんだろうな、とは思ったんですよ。

 実際にそんな感じの内容ではあるんですが、かなり贅沢にカラーの絵の写真が使われていますし、とりあげられている絵画に対する知識も、「絵そのものに対する蘊蓄」というよりは、「その絵は当時の人々(鑑賞者)たちにとってどんな意味があって、どういう目で見られていたのか)」という「絵画を見ている人たちを見る、メタ視点的な記述」が多くて、興味深く読めました。


 ドラクロワの「民衆を導く自由の女神』(1830年)という作品の解説で、こんな話が出てきます。

 それにしても気になるのは、中央に描かれた女性です。国旗を手にしていることと題名から、フランスを擬人化した自由の女神マリアンヌだろうとは想像できますが、なぜ乳房が丸出しなのでしょうか? 結論からいうと、実在の女性ではなく女神だとわからせるためなのです。

 キリスト教は禁欲主義。なのに西洋絵画が女性の裸だらけなのは、聖書や神話の登場人物、つまり架空の存在だからエロくないとする口実が許されたからにほかなりません。それをいいことに「女神だから裸」と何百年も言い訳し続けるうちに、いつの間にか「裸だから女神」へと因果関係が逆転してしまったというわけです。


 「実在しない神は裸を描いていい」という宗教画のルールがあったので、画家たちは、実在の人物をモデルに裸の絵を描いて、その人物に「神」を意味する符牒(特定の物とか天使とか)をつけて「いやこれ女神様ですから」と「摘発逃れ」をしていたのです。
 女神は全裸で許されても、「ちょっと薄着の一般女性」を描くと「それはエロい!けしからん!」と言われていたみたいです。

 子供の頃、美術館で、やたらと裸の絵が多いことに緊張していたことを思い出しました。こんなに裸だらけなのに、周りの大人はすまして絵を眺めているのが、なんだか不思議な感じで。
 例えば、書店で裸の女性の写真が載っている本を真剣に眺めている人がいたら、好印象は持ち難いと思います。
 ところが、それが美術館に展示されている「アート」となると、子供でも見てOK、むしろ教育的に好ましい、ということになるのです。 
 
 人間が積み重ねてきた技術や知識で世界は変わってきたけれど、個々の人間の性質は、少なくともこの数百年では、あまり変わっていないのかもしれません。
 見たいものは見たいし、「大義名分」みたいなものには、あまり抵抗せずに流されてしまうのです。


 ポール・セザンヌの回では、セザンヌを「生まれつき絵がヘタ」だと断じています。「遠近法がでたらめで、物が不自然な方向を向いているし、質感表現はさらに苦手」だと。
 そこまで言わなくても……僕よりはずっと上手いし……(さすがにそれはそうでしょうけど)

 しかしながら、その「ヘタだけど、絵が好きで、画家として認められたい」という熱意が、絵画に革命を起こすことになったのです。

 自然そっくりに描けないなら、描けるように描けばいい──。セザンヌはそう考えたのです。彼は自然を自分にも描ける単純な形=球や円錐や円柱(○△□)に分解して再構成。すると、その方がむしろ対象の本質を表現しやすいことがわかります。
 さらに考えを進めて到達したのが、「絵は自然そっくりに描く必要はなく、絵として成り立っていればそれでいい」という真理。そうなれば西洋絵画の伝統であるそっくりに描く技法、つまりセザンヌが苦手な遠近法や質感表現に縛られる必要もありません。

 セザンヌ発想の転換は、56歳にしての初個展で、若い画家たちに衝撃を与えます。ヘタなのに確固たる存在感があり、真似しようとしても真似できない彼の作品は、上手く描く技術より自分にしかできない表現が重視される新時代の到来を告げていました。彼が「近代絵画の父」と呼ばれる所以です。


 そんなにヘタ、ヘタって言わなくても、という感じではありますが、写真が普及していく時代になると「上手さ」「写実的な凄さ」は、「それなら写真でも良いんじゃない?」と思われるようになっていったのです。
 それはそれで、「あえて写真みたいな絵を描いてリアリティを突き詰める画家たちの一派」も生まれてきたのが、人間の発想の面白さ、多彩さではありますが。

 この本のなかで、著者はアンリ・ルソーに8ページを割いています。
 ピカソでさえ4ページなのに!
 ルソーという画家は、少し前に日本でも大規模な展覧会が行われ、話題になっていた記憶があるのですが、作品を見ての僕の率直な印象は「なぜこの平板で不気味な絵がそんなに評価されているのだろう?」というものでした。「嫌いじゃない」のですけどね。

 ヘタだけど味のある絵を描く独学の画家を俗に「素朴派」と総称しますが、ルソーが他の素朴派と違うのは、自分が古典的な大画家であると信じて疑わなかったこと。サロンには当然、落選し、誰でも無審査で出品できるアンデパンダン展でも「誰もが笑った」と報じられる扱い。けれども、彼はその記事をスクラップして「画壇デビュー」と誇らしげに書き込んだのでした。

 何年も描き続けていれば普通は少しくらい上手くなってしまうものですが、ルソーの天然は何年経っても全くブレず。そもそもヘタだと思っていないからでしょう。


 ピカソは、ルソーを高く評価していて、ルソーの絵を4枚所有していたそうです。
 ピカソは、セザンヌの影響も強く受けています。
 
 権威とされる人たちがつくった、既成の「上手さ」の枠内で勝負するのではなく、その人にしかない個性を世の中にアピールして、新たな価値観を生み出していく。
 アートは技術だけではなく、「自分の作品をどう語るか」というプレゼンテーション力が求められる時代になっているのです。

 僕はこれを読みながら、YouTuberの世界って、こういう近代から現代のアートと近いものがあるな、と感じました。
 ルソーの場合は「天然」というか、狙ってああいう絵を描いていたわけではなかったみたいなのですが。

 最初に手に取ったときには、「こういうブログやYouTubeの書籍化ってよくあるけれど、そのブログや動画を見ればタダだし、内容も充実しているんだよなあ」と思いました。
 でも、この内容を動画で最初から全部観るのは、あまりにも時間がかかりすぎます。本という形になっているから、短時間で系統的な知識が得られるし、絵の視認性も高いのです。
 掲載されている絵をパッと見たり、なんとなく流し読みすることができるのも本の長所です。

 「アートの見かたの本」は最近けっこう出ていますが、エンターテインメント性の高さと読みやすさでは、この本はおすすめできると思います。
 とにかく、いろんな画家のいろんな絵が収められていて、それだけで楽しい。「読む大塚国際美術館」という感じでした。


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