琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】忘れる読書 ☆☆☆


Kindle版もあります。

メディアアーティスト、筑波大学准教授、ベンチャー企業の代表など多彩に活躍する著者。時代の先端を行く著者の思考の源は、実は読書で培われたという。それは、読んだ内容を血肉にするための「忘れる読書」だ。デジタル時代に「持続可能な教養」を身につけるために必要なのは読書だと、著者は断言する。
本書では、古典から哲学、経済書、理工書、文学に至るまで、著者の思考を形作った書籍を多数紹介し、その内容や読み解き方を詳説。著者独自の読書法はもちろん、本の読み解きを通して現代社会を生き抜く思考法までが学べる、知的興奮に溢れる一冊。


 メディアアーティストとして、多彩なジャンルで活躍されている落合陽一さん。お父さんは作家の落合信彦さんです。
 僕の個人的な印象としては、「なんだかすごそうな人ではあるけれど、言っていることの意味は、わかったような、わからないような感じ」なんですよね。

 天才なのか、稀代の自己演出家なのか。

 この本も「読書のノウハウ本」だと思って読み始めたのですが、内容的には、落合陽一さんの自分語りというか、「俺スゲー本」っぽくもあるのです。
 なんだか、以前に読んだ勝間和代さんの本に近かった。

fujipon.hatenadiary.com

 この本も、読んだのはもう15年くらい前ですが、当時の僕はけっこう批判しています。
 実際のところ「インフルエンサー本」というのは、信者、あるいはファン向けの「俺スゲー本」「わからない奴のほうがバカだと思いこませようとする本」になりがちだと思います。

 ただ、2008年の勝間さんに比べると、2022年に落合陽一さんがこの本で仰っていることには「教養」とか「普遍性」を感じるし、「自分が好きな本、あるいは話題を熱心に語っていたら、ファン以外にはついていきにくい内容になってしまった」ようにも見えるのです。

 読書量も知識の深さも、そして実際に手を動かすスピードも、落合さんには到底かなわないし、この人のやり方を真似するのは、ほとんどの人には無理だろう、と考えざるをえないのです。
 その一方で、いまの時代に求められているのは、落合さんのような「自分のストーリーを作り上げて、外部にプレゼンテーションする能力」なのだということも理解できるのです。

 これからは、直感や感性の時代。もはや論理的思考じゃ戦えない。だからこそ美意識を鍛えるべき。今こそ、アートを学ぼう──。
 数年来、ビジネスエリートの世界では、こんな風に言われているといいます。その少し前までは、MBAだ、論理的思考だと騒がれていたことを考えると、皮肉なものです。
 企業戦士が「アート」と言った時、それが何を指しているのかが、私には気になります。ビジネスエリートを数多く知る識者との対話で、「どう美意識を鍛えていったらいいか」というテーマで議論したことがあります。相手は有名な美術館や著名なアーティストの名前を引き合いに出して、「例えばこういうもの」と語るのですが、本質的にアートというものをどう捉えているのかという話は、ついぞ聞けませんでした。世の中でアートだと言われているものをどんなに集めてきても、それは「他人のアート」であり、いつまでも鑑賞モードから抜けられません。自分の中のアートの定義を持っておきたいと思います。
 私は大学で研究に携わりつつ、メディアアーティストとして活動しているため、視点はいつもアートを「創り出す側」にあります。その視点から見ると、朝の光が差し込む窓ガラスもアートに見えるし、雑談している人そのものがアートに見えることもあります。だから、「どうしたらアートを生み出す美意識を磨けるか?」という問いへの私なりの答えは、「自分でストーリーを練り上げられる人になるための訓練をし続けること」です。訓練といっても、メソッドなどは要らなくて、路傍の石一つを眺めるだけでも始められます。大事なのは、自分の思考でストーリーを練り上げようとする動機とアウトプットの機会。これに尽きます。
 実際、グローバル企業の幹部がアートスクールでエグゼクティブトレーニングを受けているという話も聞きます。「美意識をどうやって鍛えたらいいか」というテーマで議論するために私が聞いてみたいのは、「こういったアートを鑑賞した」といったインプットの中身よりも、物事の文脈と文脈を結びつけた過程です。さらには、どんなアウトプットをどれだけ重ねたかという点です。


 この本を読んでいると、落合さんは「アーティスト」で、「クリエイター気質」の人だということが伝わってくるのです。
 言葉巧みに人を操り、「信者」にするペテン師なのか、言葉で自分をプロデュースすることそのものが現代社会では「アート」の一部なのか。

 結局のところ、僕にはよくわからないんですよ。

 落合さんは魅力的な本をものすごくたくさん読んでいて、それを「読んでみようかな」と僕が思うくらい、面白そうに紹介しているのは事実です。


エジソンの生涯』(マシュウ・ジョセフソン著、矢野徹ほか訳、1962年新潮社:絶版)という本について、落合さんはこう書いておられます。

 伝記を読む時は、その人物が、どの年代にどの発明をしているかといった「年代」をものすごく意識します。電球から発明した人なのか、電信から発明した人なのか、蓄音機から発明した人なのか。映像から発明した人なのか。その順番だけでも、生きてきたキャラクターがだいぶ違うだろうと想像するからです。

 エジソンは1847年生まれで、20歳そこそこでフリーランスの発明家になっています。よく考えてみると若いなと感じます。
 最初の電気投票記録機(21歳で特許取得)や、株式相場表示機(22歳で特許取得)など、若い頃から破竹の勢いで次々と発明していました。興味深いのは、当初はすぐに役に立つものを作ろうとしていたところです。

 エジソンが蓄音機を商品化して名声を得たのが、1877年のことです。でも、私が好きなのは、その後の電球を発明するまでの時期です。彼はニュージャージー州にメンロパーク研究所を設立して「メンロパークの魔法使い」と呼ばれるようになります。そこで発明集団を作り上げ、マネジメント面で力を発揮していきます。その期間、エジソンはけっこう大変な思いをしています。逆境に直面すると、哲学的になっていくこともあるというのは、なんとなく私も理解できます。
 その後、無事に白熱電球(1879年)を作り、発電機(1880年)を作り、というように、完全に電気畑でやってきたのに、映像を作ろうと「キネトスコープ」(1889年)という電気的でなはないものの発明に取り組んでいた頃には、「純粋科学をやりたいんだ」ということを話していました。その時にはもう、40代半ばです。でもその後、ガリ版印刷機の原型の発明をして、また電気的な発明に軸を戻しているのですが、俯瞰してみると、人間としての揺らぎも感じられて、さらに奥行きが増します。
 20世紀に入ると、エジソンは蓄電池の開発に燃えていて、その頃はもう60代です。本書では、熱量が変わらないエジソンの人生を、最後まで一貫して書き連ねてあります。

 伝記で一人の人の生き方を俯瞰して追うと、20代、30代、40代……と、その人が生きていた年代ごとにキャラクターが変わっていくのがわかって面白いと思います。本を読む時に、年代や年齢といった時間軸を押さえることは、時代的なセンスを身につける上で結構重要なファクターだと感じます。


 落合さんは、この本を「ジェラシーをたぎらせながら読んだ」そうです。
 エジソンの「こんな伝記が残されるくらいの濃厚な生き方」にジェラシーを感じずにはいられなかった、と仰っています。
 そして、「それくらいに、私はエジソンが好きなのです」と。

 結局のところ、本の感想とか書評というのは、「誰が紹介しているのか」という呪縛から逃れられなくて、落合さんが紹介しているからこそ、「書評=自分語り」がサマになっているし、僕も読んでみたくなるのです。

 新興宗教などの問題についても言えることなのですが、他者の価値観に依存するというのは、リスクが高い行為でもあります。
 でも、人はすべてを疑っていては、生きていくのが難しい。
 それが「科学的な態度」なのだとしても。

 「ファン」と「信者」の境界って、どこにあるのか?
 そもそも、はっきりした境目なんて、存在しないのではないか。

 世の中には、こういうことを考えて本を読んでいる人もいるのか、というのを覗き見るつもりで読むと、ちょうどいいのかもしれません。
 「良い子(というより、普通の人)は真似しない(できない)」だろうけど。


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