琥珀色の戯言

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【読書感想】バズる「死にたい」: ネットに溢れる自殺願望の考察 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

IT社会の“タブー”に踏み込む!

自殺願望の書き込みは、公序良俗に反するのか――ある遺族から寄せられたメールをきっかけに、著者は“死への記述”が綴られた143のサイトを調査する。ネット上に蓄積された「苦悩のデジタル遺品」は、自殺の連鎖を招く単に“有害”なものなのか、それとも全く別の新しい価値があるのか。
膨大な記述を紐解き、投稿者や遺族など当事者たちの心情を追いながら、「ネットと自殺」という現代社会の難題に向き合った。


 ネットと「自殺」。いわゆる「メンヘラ」的な、精神が不安定な人は、今から20〜25年くらい前の初期のインターネットでは、もっと頻繁に見かけた記憶があります。
 誰かが「死にたい」とネットに書き込むと「私も!」「僕も……」という共感と、「死ぬな!」「生きていればいいこともあるよ」という励ましの声。そして、「死ぬ死ぬというやつほど死なないんだよな」と冷めた見解を述べる人。

 21世紀から、どんどんネットが「公共空間」とみられてきて、遊園地やアルバイト先での「おふざけ画像」が炎上し、投稿者は実社会でもペナルティを受けるようになリました。
 そして、自殺願望を訴え続ける人は、ネットから不可視化されていったように感じます。
 僕の視界に入らないところでは、死や犯罪に親和性がある「闇サイト」も存在し続けているのでしょうけど。

 ネットで「自殺 方法」と検索すると、「こころの健康相談」とか「いのちSOS」などのサイトが最初に表示されるようになっています。
 正直なところ、本当に死の方法を探している人たちが、これらのサイトに相談する余裕があるのか、「この検索サイト、役に立たないな」と思うだけではないか、という気もしなくはないのですが、少なくとも、ネット社会は、昔ほど「書きたい放題、検索し放題」ではなくなりました。

 その一方で、自殺の「生配信」が拡散されたり、ネットで自殺志願者を募って実行したり、という事例もあるのです。
 近年見てしまった、若い女性2人組の飛び降りの映像で、ひとりの子は「怖いよ」と直前に言っていたんですよね。
 もし、彼女がひとりで実行しようとしていたら、これが「配信」されていなかったら……少なくとも、怖がっていた子は、死ななかったのではないか、そんなふうに考えてしまうのです。

 生きているのが無条件で「幸せ」なのかはわからないし、多くの人は、幸せになりたいから命を断つのではなく、苦しみから逃れたいから、その選択をするのであって、生きることが正しくて、死ぬのは悪なのか?というのは、僕には答えが出せない。
 ただ、死ぬことは不可逆的(後戻りができない)だし、周囲の人を苦しめてしまうことも多いから、生きられる人がそれをいま選ぶのを、避けられるものなら避けたい、とは考えています。


 前置きが長くなりました。
 この新書、「インターネットと死に関するコンテンツ」「デジタル遺産」について、長年取材し、書いてこられた古田雄介さんの著書です。
 古田さん自身、ずっと「死」に惹きつけられ続け、大学卒業後に建設会社(ゼネコン)から葬儀社に転職し、その後、ジャーナリスト、ライターとして活動されているのです。
 僕は『故人サイト』という本で古田さんのことを知り、読み続けています。

 僕自身の仕事も「死」に近いところにあるのですが、インターネットで「死にたい」と語るコンテンツには、「見たくない」と顔を覆った手の指の隙間から、つい覗いてみたくなるような引力を感じ続けてきました。
 それは「共感」でもあり、「まだ自分は大丈夫だ、この人ほど追い詰められていない」という傲慢な再確認の場でもあったのです。
 

 本編で詳しく触れますが、日本の自殺者数は10数年スパンでみると減少傾向にあります。にもかかわらず、「死にたい」の流通量は年々増えています。それと同時に警戒心も高まってきているように見受けられます。
 それを踏まえて。
 身近な個人がインターネットに残した「死にたい」を発見したとき、あなたならどう向き合いますか?
 亡くなった娘が残していった「死にたい」を発見したある人は、その言葉が公序良俗に反すると判断して、削除する方法はないかと私に助言を求めてきました。
「死にたい」はよくバズる。放っておいても存在感が消えていかないばかりか、人に目を向けさせて止まない。そんな危険極まりない言葉はできるだけ早くに消し去るべきだ。誰かに悪い影響を与えないうちに。
 その考えは倫理的であり、筋が通っているように思えます。私もとりあえず同意して、削除できる具体的な方法をその人に教えました。
 そう、とりあえず。
 この本はそのときの後悔から生まれました。


 長年、インターネットで「死」を題材にしたコンテンツを採りあげてきた著者は、「故人がネット上に残したコンテンツ」への遺族からの問い合わせをきっかけに、「ネット上で『死にたい』と語る人たちの言葉は、ネットに存在して良いものなのか、あるいは、本人がいなくなった場合に、遺されておくべきものなのか?」と懊悩するようになり、「死にたい」と書かれた143件のサイトを細部まで読みこんで、関係者や専門家に取材しています。

 メディアの自殺報道に影響されて自殺者が増える「ウェルテル効果」が知られていて、死因が公開されなかったり、記事の最後に「いのちの電話」へのリンクが貼られていたりするのを見たことがある人も多いはずです。

ja.wikipedia.org


「その人」が、自分にとって大事な存在であれば、「世界に向けて、あえてネットに書いた最後の言葉」をそのまま遺しておきたい、と思うのか、それとも、「他の人の『後追い』につながってしまってはいけないから削除してしまうべきだ」と考えるのか?
 「ウェルテル効果」が知られている一方で、死について語る人々の言葉や、その死によって、「やっぱり自分は生きてみよう」と「生き直す」人もいるのではないか。
 ゲーテの『若きウェルテルの悩み』や、芥川龍之介の『或阿呆の一生』は、結果的に、絶版にはならずに長年読み継がれているわけですし。
(僕は『或阿呆の一生』、すごく好きな作品です。どこがいい、とかはうまく言えないけれど)


 人が必ず死ぬ存在である以上、死について語るのは、避けられないものではあります。
 過剰に美化する必要はないと思いますが。

 実際、偶然その現場を見てしまったり、家族が後悔し続けていたり、といった「二次被害」は甚大です。
 医者にとっても、自分が診ていた人がそれを選んでしまったことは、忘れられない。
 

 インターネットが、「みんなのもの」になっていくにつれて、「自殺」に関する記述は制限されていきました。

 とりわけ2000年代半ばまでは、自殺に関する警戒の種類がそれ以降と違っているように感じることが多かった。たとえば、「死にたいと言う奴ほど死なない」といった言葉がコメント欄に書かれて一定の支持を取り付けていたり、何の躊躇いもなく練炭自殺などの具体的な方法を記載するブログが多数残されていたりと、自殺に関する情報の扱い方が2020年代とは明確に異なる。2010年前後からは、コメント欄も本人も言葉に気をつける雰囲気が次第に強まっていく。安易に自殺という行為を断じれば叩かれるし、直接的な計画を綴ったら通報されるということが知られるようになっていったのだろう。警戒感が高まり、核心のところはオブラートに包んだり比喩的に表現したりする暗黙の了解のようなものが形成されていく流れは興味深かった。


 著者は、143のサイトを詳細に検証し、「自殺を決心するに至ったプロセスに注目した」5つの分類を、この新書の中で提示しています。

(1)引き金が明白なケース
(2)将来への絶望から志向したケース
(3)混乱したままのケース
(4)長い希死念慮が帰結したケース
──不明、その他

 個々の分類に関して、興味を持たれた方は、この本を参照していただきたいと思います。
 ただ、「はっきりと分類できるものばかりではなく、複数の要素を持っている事例が多い」のも間違いないようです。


 「借金総額4億円」を遺して自殺した女性「東京女社長」のブログ(2009年2月に公開)には、こんな記述があるそうです。

 その無念の元を辿る行為は借金を押しつけられるよりも前、生まれ育った環境にも及んでいる。3月15日の投稿「電車の飛び込むのだけは」にはこうある。

 取立てにも疲れた。精神的に持たない。生れてこなければ良かった。どうせ、親にも大事にされてなかったから、どうして今まで育ったんだろう。小学生の時のあだ名。うどん。毎日の食事はうどんだったから。一つしたの弟はいつもご飯とおかずがあった。田舎育ちの男尊女卑。女の子はどうでも良いのよ。子供を産む道具だから。お母さんが言った。女の子はいらなかったのよ。何度口減らしに出そうと思ったかと。まるでおしんの世界だ。


 不公平な両親の価値観に支配された幼少時代、その悔しさをバネに経営者となって成功を目指した。その先で裏切りにあって、どうしようもない絶望の淵に落とされた。そんな半生を振り返った日記は、「そんな私、生きている価値なし。」と締められた。


 「どりょくはかならずむくわれるー!」とAKB総選挙で高橋みなみさんが叫んでいて、AKBファンばかりのはずの観客が一瞬困惑して、すぐに歓声が沸かなかったときのことを僕は思い出します。

 本当に、いたたまれない。
 
 現実では、努力は報われないどころか、誰かに「搾取」されてしまうことも少なくない。
 なんでこうなってしまったのか、救われないのは、自分だけじゃない。
 
 これらの「自殺サイト」のなかには、劇場型というか、「事実なのだろうか?」と思うようなものも少なからずありますし(著者は、かなり詳細に取材されています)、「フィクション」が書かれていたものもあったのです。

 そういう虚実入り乱れたところも含めて「インターネット」だというのは、2000年くらいからネットを利用してきた僕の感覚ではあるのです。
 ネット黎明期は「ネットだからこそ、マスメディアにはとりあげられない真実が書かれている」と信じていた人が少なからずいたのですが、現在のネットは「デマと嘘、スパムの温床」です。

 「死」に関するコンテンツは「バズりやすい」し、だからこそ、ウソや「釣り」も多い。
 そして、多くの人は、その真偽を見分けることができない。
 僕だって、「いちいち本気にしてのめり込まない」ように気をつけています。
 でも、「全部ウソ、でもない」のです。


 著者は、この本のなかで、和光大学現代人間学ぶ教授の末木新博士にインタビューし、「自殺とインターネット」への専門家としての見解を尋ねています。

 数日後、中央公論新社のウェブサイトに末木教授のインターネットと自殺に関する寄稿文がアップされていた。思わず膝を打った。おそらくはインタビュー前に書かれた記事だが、そこには私が抱えている問題の活路が示されていた。

 ネットは「死にたい」思いを可視化する。可視化された「死にたい」が人々を結びつけることによって、ネット心中や嘱託殺人などが生じてしまっている。一方で、その可視化された「死にたい」はデータとして活用され、これまでにない新しい、より合目的的な自殺予防活動が展開される素地にもなっている
 つまり、コミュニケーションのための道具であるネットは、使い方次第で毒にも薬にもなり得るパルマコン(ファルマコン、Pharmakon)である。
(2023年4月10日/「ネットが拓く新たな自殺対策──SNSに溢れる『死にたい』の行き場)


 教授の結びの文のとおり、インターネットは「死にたい」を顕在化させる力がある。それは間違いない。そして顕在化させる舞台は、人々にとってファルマコン、つまり毒にも薬にもなりうる。毒になるといえば不安を感じたりもするが、薬になる扱い方を知れば、見方は自ずと変わってくるはずだ。


 僕は25年くらいインターネットに接してきて、初期のカオスな状態から、便利ではあるが建前とハッタリで生きていかなくてはならない社会的インフラになってしまったな、と感じていたのです。
 でも、この本を読んでいると、まだ、人間(人類)とインターネットの関係は、その長い道のりの途中でしかない、と思い知らされました。
 「死にたい」で、死に引っ張られてしまう人がいるかもしれないけれど、それを蓄積すれば、ビッグデータを活用した自殺予防につながり、未来の人間により良い方向を示す可能性もある。
 
 もちろん、ビッグデータの一部になるために、人は「死にたい」とネットに書くわけではないだろうけど。
 僕にとっても、「日暮れて、道遠し」だな。


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