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ウォールストリートジャーナルベストセラー!
ハイチ移民の子として生まれたアメリカ任天堂の元社長兼COOのレジー・フィサメィが35年のキャリアで学んだ教訓と哲学とは?
・自分の考えを貫く勇気を持つ方法とは?
・絶え間ない好奇心を持ち続ける方法とは?
・業界のトップに立つために必要な方法とは?
・現状を打破するタイミングを見極める方法とは?P&G、ペプシコ、VH1などでキャリアを積み、アメリカ任天堂のトップまで上り詰めた男のキャリアを通じて直面した困難を打破し、ゲーム産業史上最もパワフルな人物の一人になるまでの激動の人生
ハイチ移民の子どもとしてアメリカで生まれた著者は、コーネル大学を卒業後、さまざまな有名企業のマーケティング担当者として成功していきます。
テレビゲームに夢中になっていたことから、アメリカの任天堂に入り、その成功に貢献し、NOA(Nintendo of America)の社長にまでのぼりつめることになったのです。
この本は、その人、レジー・フィサメイさんが、自らの半生を振り返ったものですが、読んでいて、著者の成功することへの貪欲さや、それを素直に表に出していくこと、アメリカ人のビジネスマンからは、「日本の任天堂は、どのような企業に見えていたのか」が書かれています。
故・岩田聡社長とのやりとりや、岩田さんの晩年の姿も紹介されていて、「上司として、仕事仲間として、著者からみて、岩田さんがどんな人だったのか」も伝わってきます。
日本的な企業風土に染まっている僕からすると、「こんなにズケズケものを言って、自信たっぷりで、本社の意向でも自分の意見と違えば反対してくる人は、扱いにくかったんじゃないかな」と思いながら読んでいたのです。
こういう「有能なんだけど、一筋縄ではいかない人」を活かし、「日本企業としての文化」にこだわり過ぎずに任天堂の世界的な成功につなげたのは本当にすごい。
社長時代の岩田さんがものすごく忙しかったことと、著者に対しては、ちょっと不機嫌な面を見せたり、仕方なく妥協したりもしていたことも伝わってくるのです。
岩田さんのプライベートでの姿は、長年の盟友だった糸井重里さんや宮本茂さんの思い出を集めた本があるのですが、任天堂の社長としての社内での岩田さんは、若くして社長在職中に亡くなられたこともあり、あまり語られることがありませんでした。
著者は、岩田さんの生前、最後に会ったときのことを振り返っています。
私は小さな会議室に案内された。小さいといっても滞在中に私が使用するオフィスの2倍の広さはあるだろう。私はコートを脱いでWi-Fiシステムにログインした。任天堂はセキュリティが厳重だから、重役の私でも、訪れるたびにログインとパスワードの紙をもらう。私はいつも早めに着いたら、最初のミーティングを始める前に、ちゃんとWi-Fiに接続しているかを確認することにしている。
8時半ぴったりに岩田氏のアシスタントが来て、彼の部屋に通された。このとき岩田氏は社長の在任期間が10年を優に超えていたが、先代の3人が使っていた正式な大きな社長室に移ることはなかった。彼が好んだのは、12人を収容できるくらいの長方形の会議室の上座に机が置かれた、もっとシンプルな部屋だ。他にもプレゼンテーションや開発中のビデオゲームを見たりするために、2台の大きなテレビスクリーンが置かれ、キャビネットは本やビデオゲーム、ゲームのアクセサリーやコントローラーであふれている。会社の社長室というよりは、ゲームクリエイターの部屋と言った方がいい。
岩田さんは、「私の名刺には社長と書かれていますが、頭の中はゲーム開発者です。しかし、心はゲーマーです」と仰っていたのですが、10年以上も大企業の社長をやっていても、豪華な社長室に籠るのではなく、現場に近いところに居ようとしていたのが伝わってきます。
ここで、著者は岩田さんの癌の再発を本人から聞くことになるのですが、その話のすぐ後に、ニンテンドースイッチについての相談もしています。
緊急事態だったとはいえ、この会談が午前8時半から行われたというのも、岩田さんの多忙ぶりを思わずにはいられません。
「人を楽しませる仕事」なのに、なんと過酷なことか。
日本とアメリカの文化の違いについて、こんな話も出てきます。
私がアメリカで手掛けた任天堂ゲーム機Wii(ウィー)の発売CMがいい例だ。2000年の秋、私がNOA(Nintendo of America)のセールスとマーケティングのEVP(エグゼクティブ・バイス・プレジデント)から、COO(最高執行責任者)へと昇進したときのことだ。そのとき作った広告は、2人の日本人ビジネスマンがアメリカを旅して、この最新の任天堂のイノベーションを自慢げに披露するという内容で、その主役はコントローラー、魔法のWiiリモコンだ。
岩田氏は京都でチームと一緒にWiiリモコンの開発を指揮した。特に画期的なのは動作感知のテクノロジーで、リモコンを振ってゲームができる。ベースボールゲームではバットを、テニスではラケットを振るようにリモコンを振ってプレイできる。
Wiiリモコンを使って幅広いゲーム体験ができることを伝えたおかげで、CMのインパクトは絶大だった。しかも日本人ビジネスマンが出会った家族と一緒に様々なWiiのビデオゲームを楽しみ、愉快な動きや癖を披露するなど、打ち解けた仲間意識に包まれる。どのゲームのCMも、今や有名なこの文句から始まる。「Wii would like to play (Wiiがあなたとの対戦を待っている)」
私は広告代理店レオ・バーネット・ワールドワイドと共同で手掛けたこのCMを支持し、出来上がったものを事前に岩田氏にも見せていた。ところがCMを公開する1週間前になって、岩田氏は自宅にいる私に電話をかけてきた。「レジー、私は京都でみんなにCMを見てもらっているが、心配なことがある」。日本の任天堂の経営陣は、CMに出ている日本人ビジネスマンの、西洋の家族との接し方が馴れ馴れしくて、くだけすぎているいると感じていたらしい。「レジー、CMを変えてほしい」
任天堂本社のチームが指摘した問題点は、CMの成功要素を真っ向から否定するものだった。CMを変えることは、これまでの仕事を否定することになる。これまで私がCMに携わってきた経験からいっても、この指摘は間違っている。このCMはこれまでの殻を突き破り、インパクト絶大だ。この問題についてあれこれ話し合う中で、「過剰な馴れ馴れしさ」がアメリカ、カナダ、ラテンアメリカでは気にされないと考える理由を私は説明した。
話し合いが煮詰まる中、私は言った。
「ミスター・イワタ、あなたが私を任天堂に呼んだのは、任天堂の世界最大の販売地域に強力なマーケティング担当者が必要だったからですよね。あなたは私の業績をご覧になってきたし、私を昇進させてくれました。どういう結果が出るのか自信がありますから、お任せください。このCMはアメリカで成功します」
しばらく間が空き、それが永遠に続くかのように重く感じられたときに、岩田氏は口を開いた。「わかった、レジー。君を信じるよ。前に進めてくれ」。
結果的に、CMは私の支社が実践した他のマーケティング戦略と併せて成功した。私たちは世界の任天堂支社の中で、最もWiiを成功させることになる。
この事例に関しては、「CMが成功するかどうか」よりも、「日本人を過剰に馴れ馴れしく描くのは、事実に反する」というのを日本側は問題にしていたのではないかと思うのです。
CMとはいえ、違和感があるし、日本国内で反発を受けるかもしれない、と危惧していたのかもしれません。
岩田社長が自分の意志を絶対に曲げない人だったり、著者がイエスマンだったりしたら、きっとこのCMは変えられていたでしょう。
ただ、これを読んだ僕は、岩田さんは、よく我慢したなあ、と思いました。
著者と岩田さんが京都で一緒に食事をしたとき(岩田さんが部下をディナーに誘うことはめったにないことでした)、こんな会話があったそうです。
私たちは子ども時代について語り合った。2人共幼い頃に家に置いてある百科事典を読んでいたことを知って、笑い合った。私の場合、それは全26巻の『ワールドブック百科事典』だった。私たちは自分たちの情熱と、ここまで共に歩んできたことについて語り合った。「レジー、私たちはよく似ているね」「ミスター・イワタ、どういうことですか」。彼は世界的なゲームデベロッパーで、任天堂の4代目の社長だ。一方の私は無鉄砲なマーケターでビジネスの破壊者だから、似ているはずはない。
「レジー、任天堂は社員がずっと居続ける会社だ。だが君と私は外部から入ってきた」。
岩田氏は2000年に正式に入社し、2002年に社長となった。「私たちは会社を前に進めながら、カルチャーを理解しようという独自の課題を抱えている。君には全社員の声を聞いてもらいたい。みんなの視点を理解して、そこから君自身のアイディアをプッシュして欲しい。ただ君はとても強引なのが玉に瑕なんだ。うちの社員は、NCL(任天堂株式会社:Nintendo Co., Ltd.)の人間でさえ君の機嫌を取ろうとしている。確かに君はいいアイディアを出してくれるが、それがいつも正しいとは限らない。他の人の視点も考えてあげてくれないか」
踏み込んだ話になっていった。彼はこう続けた。「君にはもう1つ頼みたいことがある。私は任天堂を新たな方向にプッシュしたいと考えている。だが宮本氏と他のみんなは、ずっと会社の一員だった。みんなと手を取り合って前に進むために、手を貸してほしいんだ」
岩田さんは、任天堂の社長でありながら、長い歴史をもつ企業の中では「外様」であることを意識せずにはいられなかったのです。
その一方で、日本の任天堂のトップとして、海外の異なる文化的な背景を持つ人々との折衝を求められる立場でもありました。
「任天堂らしさ」を守るとともに、世界の変化にも適応していかなければならなかったのです。
僕は著者の「野心や功名心を隠さず、自らの功績を自信満々に語る姿勢」が、ちょっと苦手だったんですよ。
でも、そうやって野心を持ち続け、アピールし続けないと、認めてもらえないのがアメリカのビジネスの世界なのだということも、理解できたような気がします。