琥珀色の戯言

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【映画感想】機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女 ☆☆☆☆

「シャアの反乱」と呼ばれた第2次ネオ・ジオン抗争から12年後の宇宙世紀105年(U.C.0105)。圧政を強いる地球連邦政府に対し、政府高官の暗殺という方法で抵抗を開始した反地球連邦組織「マフティー」。そのリーダー、マフティー・ナビーユ・エリンの正体は、一年戦争をアムロ・レイとともに戦ったブライト・ノアの息子、ハサウェイ・ノアだった。不思議な力を示す少女ギギ・アンダルシアの言葉に翻弄されながらも、マフティーとしての目的遂行のため歩みを進めるハサウェイ。一方、マフティーを追う連邦軍大佐ケネス・スレッグは、刑事警察機構のハンドリー・ヨクサンから密約を持ちかけられる。ハサウェイとケネスがそれぞれの目的のために動くなか、ギギもまた自分の役割のため、ホンコンへと旅立つ。


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2026年3作目の劇場鑑賞。祝日の午前9時台の回で、観客は30人くらい。僕と同世代からやや若めくらいの男性がほとんどでした。

観終えての感想は、映像や音楽、効果音は良かったけど、結局、この物語って、映画2本でハサウェイとギギがくっついたり別れたりしているだけじゃね?というものでした。

あと、富野由悠季さんや宮崎駿さんは、ずっと戦後の学生運動を引きずっているのだなあ、とも。

いまの時代の若者には、こういう「革命闘争」みたいなものはかえって新鮮に映るのかもしれないけれど、ハサウェイのトラウマと自己愛に引きずられてなんかひどいことになってるなこれ、というのが率直な印象でした。

オサマ・ビンラディンやサダム・フセインが、アメリカのお尋ね者になってから、数日単位で隠れ家を移動し、ほとんどの時間を地下の狭い場所で過ごしていた、というのをドキュメンタリーや映画で観たのですが、マフティーことハサウェイは、英雄ブライト・ノアの息子とはいえ、あまりにも隙だらけの行動をしていて、あんなテクノロジーが発達した時代のテロリストとしては、脇が甘すぎるのではないか。

そして、ケネス大佐は有能ではあるけれどパワハラっぽいスティーブ・ジョブズ系の人物で、公務にも女性を平然と連れ回すなど、連邦軍の軍紀はどうなっているんだ?と疑問になります。

「そのくらい地球連邦軍は腐っているんだ」という描写なのかもしれないけれど。

富野由悠季さんは「破滅志向の革命家」が好きで、シャア・アズナブルもそんな感じのイケメンとして『逆襲のシャア』では描かれていました。
『逆襲のシャア』で共鳴していたクェスを自ら殺めてしまった、そして、英雄である父親とアムロ・レイへの憧れと反発を抱いているハサウェイの内面が複雑なものになっている、というのは理解はできるのだけれど、覚悟も色事も革命家としても中途半端、としか思えない。

ひたすら成り上がりたい、モテたい、というようにしかみえないケネス大佐のほうが、なんだかスッキリする人ではあります。

おそらく、この『閃光のハサウェイ』という物語、原作は、「冷徹な革命家にはなりきれなかった、革命にとらわれた若者像」を描いたものだったと思いますし、それは、富野さんが、若かりし頃に学生運動でみた、理想を掲げて挫折したり、転向したりしていった同世代の「仲間」たちをハサウェイに投影したものなのでしょう。

肉欲、みたいなものも学生運動のなかで露呈したり、「自己批判」の材料にされたりしていて、「革命をめざしているはずなのに、幹部は男ばかりで、女性の同志には夜食のおにぎりをつくってくるように命じているのにがっかりした」と証言していた人がいたことを思い出します。

たしか、のちの「ナベツネ」こと渡辺恒雄さんも、そんな「理想をうたいながら、やっていることは主導権争いと性的な搾取、という革命家たちへの失望」から、若かりし頃に共産主義を捨てて「転向」した、という話をされていました。

ギギは、この物語のファム・ファタール(運命の人)としての役割を担っているのですが、正直、110分くらいの尺のこの映画のなかで、ギギの香港での行動のシークエンスは、制作側にどんな意図があったのか僕にはよくわかりませんでした。
ギギのファッションショー、みたいなのはこの映画の見どころのひとつなのかもしれないけれど、『プラダを着た悪魔』じゃないんだからさ。

個々のシーンのアニメとしての美しさや音響効果は素晴らしいと思う。
ただ、僕は映画の「映像の美しさ」よりも「ストーリーの面白さ」を重視しがちなので、この『キルケーの魔女』は、シリーズの1作目と何が違うの、これ?という疑問を感じずにはいられませんでした。

テレビシリーズなら、こういう「停滞」も、「ディテールを繊細に描くこと」も意味があるかもしれないけれど、わざわざ3部作にしているのになぜこんなに冗長なのか?
『ガンダム』は、ファーストガンダム、Zガンダム、逆襲のシャア以外は、最初に大風呂敷を拡げて、最後はガムの包み紙、みたいな展開が多すぎないか。

ジークアクスとか、最初の映画版はすごく面白かったのに。
人類の未来や神の存在を想起させるスタートが、終わってみれば痴話喧嘩。

なんかめちゃくちゃ不満だらけの感想になっていますが、こういうツッコミどころもふくめての富野ガンダムだというのは百も承知していますし、『キルケーの魔女』も楽しんで観てはいたんですけどね。
「先に進まない」のは「先に進まない現実を描いた作品だから」というのもわかっているつもりなんですが。

ただ、原作が描かれた時期を考えると、あまりにも映画化が遅かった。
あるいは、「遅すぎたからこそ、若い層にはかえって新鮮に感じられた」のかもしれません。

リアルタイムでのファーストガンダムの後日談の数々への僕の率直な感想は、せっかく『めぐりあい宇宙』で、あんな感動的なラストで生き延びたアムロやホワイトベースのクルーたちを、わざわざ掘り起こして不幸にしていくんじゃねーよ富野(呼び捨て失礼!)でした。

僕もそろそろ終活を意識するような年齢になってみて、『逆襲のシャア』でああいう形でアムロとシャアの因縁にケリがついたのは、それはそれで美しかったのかな、と感じるようにはなりましたが、学生時代に観たときには「映画にするために2人が犠牲になった」と思ったのです。

なんだかネガティブな言葉を並べてしまいましたが、この物語を最後まで見届けたい気持ちはありますし、3作目は僕が生きているうちに、できればなるべく早いうちに公開されることを願っています。

でも、ここで終わったほうが、登場人物たちは、とくにハサウェイは、けっこう幸せなままでいられそうではありますね……


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