Kindle版もあります。
人間は、つねに疑念を抱く生き物である。
錯覚や幻覚、虚偽(フェイク)や真実(トゥルース)、善や悪、陰謀論とどう付き合い、向き合うか。
ヒントは古来、思想家たちが探究してきた懐疑=判断保留の哲学にある。
古代ギリシアで興った懐疑論は、ルネサンス期に再発見され、近代にデカルトやヒュームらが展開し、ウィトゲンシュタイン以降、新しく花を開く。2500年の軌跡から人間の思考の落とし穴を知り、心の平安にいたる手引書。
僕は40代後半くらいから、哲学に関する本を少しずつ読むようになりました。
難しくて、なかなか「読み終える」ことができないので、ずっと敬遠していたのだけれど、長い時間、読み継がれてきたものにはそれなりの意味や価値があるのでしょう。
僕が若い頃から「こんなことで悩んでいる自分は(よくも悪くも)特別ではないのか?」と考えてきたことは、ほとんどすべて、先人も同じように疑問を抱き、悩んできたことだったんですよね。
この新書は、紀元前5世紀の古代ギリシアのプロタゴラスから書き始められ、ピュロン、モンテーニュ、デカルト、ウィトゲンシュタインら、現代に至るまでの「懐疑論の変遷と、懐疑論が人の生きかたにどんな影響を与えてきたのか」が記されています。
ウィトゲンシュタイン、最近もNHKの『100分de名著』のテキストになっていて、ちょっとしたブームになっている印象もあります。
アメリカにトランプ大統領が誕生し、これまで「社会的な正義」だと思ってきたことが、「力」の前に通用しないことを突き付けられた時代に「懐疑論」にあらためて注目する人が増えるのは、わかるような気がするのです。
この新書の最初に、懐疑論(あるいは相対主義)の祖として、プロタゴラスという人が出てきます。
プロタゴラスの著者は現在には伝わっておらず、プラトンなどの後年の著名人が引用したものが残っているだけなのですが、彼は、このような言葉を遺したとされています。
神々については、それらが存在するということも、存在しないということも、私は知ることができない。なぜなら、それを知ることを妨げるものが数多くあるのだから。事柄が不明瞭であるのに加えて、人生は短いのだから。
万物の尺度は人間である。あるものについてはあるということの。ないものについてはないということの。
「万物の尺度は人間である」って、高校の時に世界史の授業で習ったなあ。センター試験の選択問題(模試だったかも)に出ていたような記憶もあります。
何かが冷たい、温かい、赤い、青い、重い、軽い、といったことは、各人の感じ方や知覚する環境などによってさまざまに異なりうる。したがって、何かがそれ自体として「冷たい」とか「赤い」とか「重い」といったことはありえない。──ここまでは、特に問題のない主張であるように思える。
しかしプロタゴラスは、万物の尺度は人間であると言っている。だとすれば、たとえば何が「立派」であり「醜悪」であるか、何が「正当」であり「瀆神」であるか等々のことも、人々がどう思うか次第で異なりうるということにならないだろうか。そして、そうであれば、同じ事柄について人々が正反対の主張をしたとしても、どちらが正しいということにはならない──双方の主張は両立する──ということにならないだろうか。
2026年に読むと、「ふーん」と読み流してしまいそうなのですが、「神がいることが大前提」だった当時のギリシアでは「問題発言」としてプロタゴラスは糾弾され、アテナイから追放され、著書は燃やされたそうです。
自由とか民主主義の源流とかいうけれど、当時のアテナイも今の日本人である僕からみると、あまり「自由」ではなかった。
そういう「物事の正しさというのは、時代や状況において左右されるもので、『絶対的な正しさ』は存在しないのではないか」という疑問が懐疑論の成り立ちでもあります。
「いや待ってくれ、『絶対的な正しさは存在しない』というのは正しい」というのは、それ自体が矛盾ではないのか、と疑問を呈する人が出てきたり、それなら条件を限定しよう、という流れになったりして、読んでいる僕の頭も大混乱です。
僕も車を運転しているときに、ふと思うことがあるんですよ。
前の車が赤信号でちゃんと止まる、急停車したり、暴走したりしない、と「信じている」からこそ、運転できるんだよな、って。
実際、交通ルールを物理的に「破る」「無視する」ことは可能だし、わざとじゃなくても、事故は起こります。
でも、疑いにとらわれて、周りがまったく信用できなければ、車の運転なんてできませんよね。
古代懐疑主義の祖とされるピュロン(前4~3世紀)についての、こんなエピソードも紹介されています。
ピュロンに関して後世まで繰り返し伝えられているエピソードは、彼が日々の生活においても実際に判断を保留し、「何ひとつ避けることもしなければ、前もって用心することもなかった」というものだ。たとえば、進む先に崖があるように見えても、彼は「崖がある」と判断せずに歩き続けてしまうし、馬車が走ってくるように見えても、何も判断せず、避けようとしない。彼に及ぶ危険は、いつも付き添ってくれる友人たちが回避してくれたという。
だが、彼が本当にそんな調子で日常生活を無事に送れたとは、とても考えられない。しかも、彼は90歳近くまで長寿を全うしたともいわれる。先述のディオゲネスも、上記のこっけいなエピソードだけではなく、異説も同時に紹介している。すなわち、「ピュロンが判断保留の原則に従っていたのは哲学の研究をしている場合だけのことであって、日常の個々の行動においては、決して見境いもなしに振る舞っていたのではない」という説だ。
いくら車がたくさん走っていた時代ではないとはいえ、そりゃそうだろ、これはピュロンという人の「哲学的パフォーマンス」だろう、と僕も思うのですが。
彼は、人間をスズメバチやハエや島に喩える詩人ホメロス(前8世紀頃)に心酔し、「木々の葉の世々のさまこそ、人びとの世々の姿なれ」というホメロスの詩句を絶えず口ずさんでいた。また、次のようなエピソードもある。彼はあるとき航海中に嵐に見舞われ、他の乗組員たちが狼狽しているなかでも、ひとり平静を保っていた。そして、船に載せられた子豚が無心に餌を食べ続けている様子を指し示しながら、賢者はこうした「アタラクシア(平静な心、不動心)の状態に自分を置かなければならないと言って、彼らを元気づけた)。
もちろん、何ごとにも動じない心といっても、何ごとにも無反応だとか、何の対処もしない、ということではない。子豚も、たとえば進む先に崖があれば進行方向を変えるだろうし、馬車が走ってくれば避けるだろう。つまり、自分に現れるもの──崖の表象や、走ってくる馬車の表象など──に応じてそのつど自然に対処をするだろう。しかしそれは、判断保留ということが強調される場合の「判断」にはあたらないということだ。
実際、すべてを疑い、「判断保留」にしていたら、日常生活を無事に送ることはきわめて難しい。
ただ、この「アタラクシア」という言葉にもあらわれているように、「絶対的な正義がある」という立場に対して、それを信じない、アテにしない前提で、人間はどう生きれば幸せに近づけるのか、と懐疑主義の哲学者たちは思考を続けていったように僕には思われます。
「それってあなたの感想ですよね」を認めたうえで、どうすれば、よりよく生きることができるのか。何に規範を求めればいいのか。
その場が楽しければいいや、という快楽主義に乗れればいいのだけれど、哲学をやる人の多くは、そういう結論に飛びつくことは少ないのです。
デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり(ラテン語では、Cogito ergo sum)」という言葉については、このように書かれています。
自分はいま夢や幻を見ていて、世界にはまったく何もないのかもしれない。推論や計算といった思考の産物もすべて誤っているのかもしれない。しかし、私がそうやって疑っていることそれ自体は疑いえない。私が何かを考えていることそれ自体は疑いえないし、そのように考えている私が存在することも疑いえない。『省察』の刊行に先立つ1637年に世に問うた『方法序説』においても、デカルトは次のように述べている。
私はこう決心した。これまで自分の精神のなかに入り込んでいたものはどれも、夢のなかの幻想と同様に真ではないものと仮定しておこうと。しかしすぐ後で、このようにすべてを偽であると考えようとしている間も、そう考えているこの私は必然的に何ものかでなければならないことに気がついた。そして、「私は考えている。ゆえに私は存在する」というこの真理はいかにも硬固で確実であって、懐疑論者のどんな法外な想定をもってしても揺るがしえないと認めたので、私はこの真理を、自分が求めていた哲学の第一原理として何のためらいもなく受け取ることができると判断した。(『方法序説』)
つまり、デカルトが押し進める懐疑は、古代懐疑主義者のように物事の真実(真理)に関して判断保留するためではなく、逆に、絶対に疑いえないもの──ここでは、考えている私の存在──を見出すための方法にほかならない。そして、彼はこの「絶対に揺るがない真実」を最初の基礎、第一原理として立てるのである。
僕がこの「Cogito ergo sum(コギト エルゴ スム)」という言葉を知ったのは、マンガ『コブラ』のなかに出てきたからなんですよね。
なんかもう、ものすごくカッコいいシーンで、記憶に刻まれてしまったのです。
『エヴァンゲリオン』とかもそうなんですが、1970年代生まれの僕が接してきたエンターテインメントのコンテンツには、背景に作者の哲学や歴史への興味や研究・解釈が感じられるものが多かった。
手塚治虫先生は、「漫画を読んで漫画を描くな」と仰っていたそうです(もっと視野を広くもって世の中のことや他のエンタメのコンテンツに触れて漫画を描かないと面白くならないよ、という意味だと僕は解釈しています)。
映画『マトリックス』にもこの新書のなかで言及されています。
「われわれは本当は生命維持装置のようなもののなかで夢を見せられているだけなのではないか」というのは、哲学的には、新しい発想ではないのです。
しかし、このデカルトの名言も、のちにヒュームなどから「人間の推論する能力はすべて信用できない、という前提に従うのなら、なぜ自分の『考えていること、その能力』を例外的に信用できるのか?」と批判されています。
揚げ足取りっぽくはあるけれど、それはたしかにそうだな、とも思います。
懐疑論の歴史って、先人の思想の隙を見つけて否定することの繰り返しになりがち、なんですよね。
ある意味、いまのネット論争的、な感じもします。
著者は、懐疑主義について、このように述べています。
懐疑主義は元来、この複雑性や多様性、流動性こそを重視するものであるはずだ。まして、たとえば「日本文化」や「日本人の国民性」などを一枚岩の固定的なものとして捉え、その絶対的な優越性を主張するような立場──自文化中心主義などの独断的・独善的なイデオロギーの類い──に対しては、厳しい批判を向けるはずである。懐疑主義にとって物事の見方を相対化するというのは、一方を持ち上げて他方をこき下ろすことなどではなく、双方を相互的な関係においてよく理解することであったり、その性急な区別自体を問い直して解体することであったりする。したがって、懐疑主義による相対化とは分断ではなく接続であり、分断を弱めてときに無効化するものだとも言えるのである。
著者の「主張強め」だな、という文章ではあるのですが、「疑い、ちゃんと考えようとしつづけること」は、いまの世界を生きていくために、大事なことだと僕も思います。
「はい、論破」ではなく、「相手の状況や主張にも耳を傾け、妥協点、共生できる状況を探ること」。
疑いながら、どう日常を過ごしていくのか。
ウィトゲンシュタインがあらためて注目されているのは、まさに今この時代に求められている思想だからなのか、と合点がいった気がします。


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