琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

勝負勘 ☆☆☆☆


勝負勘 (角川oneテーマ21)

勝負勘 (角川oneテーマ21)

内容紹介
究極の勝負師の「勝負勘」とは何か。
日本一の最多勝記録を持つ名騎手が勝負の駆け引き、究極の集中力の極意までを綴った初めての書き下ろし。すべては人生の生き方まで繋がる時代とともに生きるヒントを伝授。

 この本、「名手・岡部幸雄」の引退後初の著書だったそうなのです。僕は岡部さんの大ファンだったにもかかわらず、この本が出ていたことに全然気づいていなかったんですけど。
 僕が岡部さんのことを好きになったのは、「アンチ武豊」だったことが大きな理由でした。僕が競馬をはじめたいまから15年くらい前、武豊はまさに人気絶頂。「いつも武豊が乗る馬は過剰人気になるので、それを嫌って買わないと来る、しょうがないから僕も武豊を買ってみるとなぜか来ない」という相性の悪さと同じ男としての僻み嫉みみたいな感情もあった僕は「ふん、武豊って言ってもさ、名手・岡部に比べたらまだまだ青二才だぜ!」というような理由で、岡部さんのファンになったようなものだったのです。
 まあ、そのおかげで、晩年、タイキシャトル以降は精彩を欠いたレースが多くなってしまった岡部さんの馬券を買って外しまくってしまったんですけどね。それにしても、シンボリクリスエス秋の天皇賞で岡部さんの会心の騎乗で勝ったあと、ぺリエに乗り替わりになったのは本当にファンとしては悔しかったよなあ……
 最近になってようやく「武豊はなんのかんの言っても『第一人者』としての責任を果たそうとしているし、平日も『競馬界の顔』として、あまり稼げそうもないような地方競馬のレースにまでちゃんと出向いているんだから偉いよな。武豊は『プリンス』だけど、自分が王子であることにちゃんと責任を持とうとしている姿勢は立派だ」なんて思うようにもなったんですけどね。
 で、そう思うようになるころには、武豊は必殺の「ゴールまで後方待機作戦」を炸裂させることが多くなってしまったわけで。

 この本、岡部さんの人生経験や「勝負勘を身につけるには」ということについて書かれているのですが、正直「人生訓」の部分は、僕にとってはあんまり「面白い」とは思えなかったんですよね。まあ、50代半ばの成功した上司の説教みたいなものだな、と。
 ただ、岡部さんからみた「競馬界」、レースの光景や競走馬の性質、他の騎手への評価などは、やはり読み応えがありました。せっかく岡部さんは現在競馬サークルからある程度距離を置いているのだから、そういう競馬界の裏話や騎手の技術論的なものを、もっと読んでみたいんですけどね。

 意外に思われるかもしれないが、武豊騎手の最大の武器はミスをしないことだと思う。
 一緒にレースをしていたときにもそのことは感じていたが、引退して第三者の目で外からレースを見るようになると、ミスらしいミスというのがほとんどないのがよくわかる。
 実をいうと、レース中の騎乗というものは、加点法ではなく減点法で考えるのが適している。騎手たちはレース中によくミスをする。もちろん、ここでいうミスには単純な騎乗ミスだけではなく判断ミスなども入ってくるが、単純な話、ミスをしないことが勝利への一番の近道なのである。
 そういう意味では、(シンボリ)ルドルフの育成方針とも共通している部分も大きい。何をすればプラスになるのかを考えるよりもまず、マイナスに作用しそうなことをいかになくしていけるかが問われるわけである。それができているからこそ、武豊騎手はあれだけの成績を残せているのである。
 レースにおいては、勝負の分かれ目は次々にあらわれる。
 ゲートが開いた一歩目をイメージどおりに踏み出せるかはわからないし、スタート直後には、自分の馬と周囲の馬の状況を対比してレース前に持っていたイメージを作り直す作業が求められるケースがほとんどだ。レースが始まるまでは逃げることなどまったく考えていなくてもスタート時の状況次第で逃げを選択するようなケースも珍しくはない。
 そんな分岐点のひとつひとつで、いかにミスチョイスをしないかで勝負は決まる。
 確率的なことからいえば、どこかの分岐点でひとつのミスを犯せば、それを取り返すための分岐点があらわれる可能性はかなり低くなる。
 スタートに失敗して出遅れたりしてしまえば、相当な不利になってしまうのはいうまでもない。だが、出遅れてしまった次の瞬間には新たな選択をしなければならないのだ。それができずに、何がなんでも最初にイメージした位置につけようと慌ててしまえば、馬のリズムが崩れてレースはおしまいになる。
 スタートが決してうまくないディープインパクトの場合を考えてみれば、ディープインパクトが出遅れたときにも武豊騎手は慌てることはない。それだけ馬の力を信頼できているということなのだろう。スタートに失敗しても、挽回できるチャンスは必ずあると信じて、展開に合わせてレースプランを練り直すことができているのだ。
 ディープインパクトはルドルフに匹敵する能力を持った馬なのにはちがいない。だが、こと「欠点の少なさ」という点でいえば、ルドルフのほうが上ではないかと思う。
 私などは、何度も騎乗ミスをしていながらルドルフにそれをカバーしてもらうことで勝たせてもらっていた面も大きかった。だが、ディープインパクトの場合は、スタートのまずさや行きたがる気性など、騎手の手を焼かせる部分が今のところは少なくない。それにもかかわらず、武豊騎手がそれをカバーしているのである。武豊騎手のレースぶりから減点材料を見つけるのは本当に難しい。

 「名手・岡部」が語る、「天才・武豊の最大の武器」。
 僕にとっていちばん「インパクトがあった」ディープのレースは、スタートで大きく出遅れ、武豊騎手が落馬しそうになったにもかかわらず、4コーナーで捲ってきて、そのまま直線で後続を突き放して勝った皐月賞でした。G1レースで、あんなに不利な状況で勝った馬、僕の競馬歴では記憶にありません。
 あれは、「武豊は失敗したけれど、それをカバーしたディープの規格外の強さが目立ったレース」として僕の記憶に残っているのですが、岡部さんからみると、「あの状況になってもディープを勝利に導いた武豊はやはりすごい」ということなのでしょうね。
 

ルドルフの背

ルドルフの背

「最高」を知ることの大切さ


個人サイトで「つまらなかった」と書く必要性(琥珀色の戯言(3/25)

「面白い理由」を表現することの難しさ(琥珀色の戯言(3/26)

↑のエントリの話の続きみたいなことを書いてみます。
岡部さんの本で、すごく印象に残った部分があったので。
ある本の「面白い理由」を表現できるようになるためには、どうすればいいのか、という話なのですが、面白い作品の「面白さの理由」に近づくためには、「つまらない本」をどんなにたくさん読んでも、なかなか難しいのではないか、という話です。

 (シンボリ)ルドルフとの出逢いが、どうしてそれほど私の人生に大きな影響を及ぼすことになったのか。ひと言でいうならえ、ルドルフによって「最高」というものを知ったからである。
 それ以前にもグリーングラス(昭和53年の天皇賞・春を勝利)などの名馬に乗ることはできていたが、そんな歴史的な名馬とくらべてもルドルフは次元が違った。
 デビュー前の調教ではじめてその背にまたがった瞬間から「世の中にはこんな馬もいるのか」というくらいの衝撃を受けたのである。
 現役時代の私はよく、二歳のサラブレッドを幼稚園児にたとえていた。二歳や三歳の馬は、子供から大人へと成長していく過程にあり、ちょっと気に入らないことがあれば、泣き喚いたり暴れたりすることも珍しくないものだ。そしてこの時期には、1か月、2か月といったスパンで、違った馬になったかのように成長していく。そのため、二歳になったばかりの馬と二歳六か月になった馬、三歳になった馬などを比較すれば、その能力はまるで違ってくるのが普通のことなのだ。
 だがルドルフは同じ頃に生まれた馬たちとくらべると、半年以上も年上のような大人びた雰囲気を持っていた。競走馬として見ても、バネが強く、筋肉の質が良かった。少し専門的な話をすれば、他のどの馬よりも皮膚が薄くて、その質も良かった。皮膚が良ければ、いい汗をかいて、すぐに乾くので、新陳代謝が良くなる。そのため、皮膚が良いというのは一流馬の条件のひとつなのである。
 これだけの馬に乗ることができれば、大きなレースを勝つチャンスに恵まれるのは当然である。だが、それだけではない。最高の馬に乗ることによって、「最高の馬とはどんなものなのか」「最高のレースとはどういうものなのか」を知ることができるのである。
 短いスパンにおいて、その馬とともに実績を積めることよりも、そちらのメリットのほうが大きいくらいかもしれない。
 最高を知ってこそ、最高を目指せるのだ。
 どういうレースが最高なのかを身をもって知っているのと知らないのとでは、レースにおける乗り方そのものがまるで違ってくる。
 もちろん、その後も常に、最高の馬や最高を目指せる馬とコンビを組めるわけではない。だが、一度、最高を知っておけば、最高とはいえない馬に乗ったときにも、その馬には何が欠けているのかがわかるようになる。
 そうなれば、レースにおいてはその馬の欠点を補うかたちで乗ることもできるし、馬の成長を考えたときにも、足りないものを埋めていく方法を考えやすくなるのである。

 「速さ」が唯一無二の価値である競走馬の世界と、本や映画などの世界では(読者、観客それぞれが求めるものが違うということもあり)、「最高」にも個人差があるのでしょうが、それでも、「面白い、良質の作品」に触れるというのは、自分のなかの「面白さの基準」を確立するために非常に大事なことなのだと思います。
 何が「最高」なのかがわからなければ、概念的な「理想像」を目指すしかありません。
 「一度、最高を知っておけば、最高とはいえない馬に乗ったときにも、その馬には何が欠けているのかがわかるようになる」というのは、まさに岡部さんの実感なのでしょう。
 「最高」を知らなければ、答えがわからなまま「足し算」を延々と続けなければなりませんが、「最高」を知っていれば、その「完成形」からの引き算で、「足すべきもの」が容易に見えてくるのです。そうなれば、「面白い理由」「つまらない理由」も言葉にしやすくなりますよね。

 人生経験においては、「失敗すること」も(一発で人生レッドカード、というようなものでなければ)重要なのだと思いますが、芸術や文学の世界では、「最高のものに触れる」というのがとても大切なことのようです。ちょっと不謹慎なたとえかもしれませんが、「良いセックスとはどんなものか?」というのも、同じような感じなのかもしれません(いや、この手の話題に関しては、僕はまったく自信ないんですが)。
 ただ、何が「最高」なのかっていうのは本当に難しい話で、それを見つけるのには試行錯誤が必要であり、そのためには、書店でランダムに本を買ってくるよりは、「多くの人(あるいは信頼できる人)が薦めている本を騙されたと思って読んでみる」ほうが「効率的」ではあるのでしょう。
 実際は、「ルドルフに乗ったことがあるにもかかわらず、その経験を活かせない人」っていうのも少なくないような気もするんですけどね。

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