琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

自分の運の良さを「正しさ」だと勘違いしている人たちへ

 先週の金曜日、飲み会帰りのタクシーで60歳くらいの運転手さんと、熊本の3歳の女の子が20歳の大学生に命を奪われた事件の話になった。
 「あれは親にも責任がありますよ。まだ3歳なんだから、親も目を離したらいかんですよ。トイレに行かせるのだって、ちゃんと遠くからでも見ておかないと」
 大概の場合、僕はこういうときに「そうですねえ」とか曖昧に頷いてやり過ごしてしまうのだけれど、お酒が入っていたこともあり、「そんなふうに常に見張っておけっていうのはおかしいし、どんな親にだって、『ちょっと油断してしまう瞬間』はあると思います。それで責めるのはあんまりでしょう」と反論して、車内はやや気まずい空気になってしまった。
 「人生の先輩」として、「そういうときでも、ちゃんと見ているのが親ってもんでしょう?」というのは、確かに「正論」のようにも思えるけれど、僕はそこまで完璧に自分の子どもを見張っておくことができるだろうか?

 西日本新聞の記事によると、

 心ちゃんは家族とスーパーを訪れて、レジで買い物の精算をしていた両親に「トイレに行く」と告げ、そこを離れた。幼児の成長は速く、3歳といえば基本的な生活習慣や社会性が身に付く時期とされる。トイレに1人で行ったのも自立的な行動だったのかもしれない。
 そうした積極的な行いが、結果として犯罪被害につながったとすれば、返す返すも残念と言うほかない。
 それにしても、殺害場所が、多くの人が常時出入りするスーパーのトイレだったというのが驚きである。トイレはテナント店舗間の通路の奥にあり、店内からはよく見えないところである。そうした「死角」が突かれたということか。

 現場はスーパーの「多目的トイレ」だったとのこと。
 「ジャスコ」や「ゆめタウン」などの大型ショッピングモールは、少子化という言葉を忘れてしまうほど、いつもたくさんの家族連れで賑わっている。
 あらためて考えてみると、ああいうショッピングモールのトイレは、たしかにフロアの端のほうにあって、「死角」になっている。
 そして、「多目的トイレ」であれば、小さな女の子と大人の男が一緒に入っても、「お父さんと娘なんだろう」とみんな思うに違いない。
 そこであえて、「あなたは本当にこの女の子のお父さんですか?」なんて誰何する人は、まずいないだろう。
 もちろん、こういう事件が起こったからといって、トイレをガラス張りにするわけにもいかない。

 幼稚園に通っていて、ようやく自分でトイレに行けるようになった子どもが、「ひとりでトイレに行ってくる」と告げてきた場合、親としては、どうすれば良いのだろうか?
 公の場だし、「遠くから見守る」くらいのことはしておくべきなのか?
 じゃあ、何歳まで、そうしてあげるべき?
 見張られることによって、子どもの自立に悪い影響はないのか?
 
 そもそも、子育てをしていると、「一瞬の隙」みたいなものは、どんなに注意していても、できるものではないだろうか。
 子どもも「人間」なのだから、予想外の行動をとることは、けっして少なくない。
 どんなに日頃用心している人でも、こんなことまで想定するのは難しいし、つねにそんなことを考えていては、子どもに何もひとりでさせられなくなってしまう。

 この事件の場合、責められるのは100%加害者の20歳の男だと僕は思っている。
 こんな形で子どもを失って、その上、「お前が親として油断しているからだ」と責められるなんて、どんなに酷い社会なんだここは。
 この両親を責める人たちは、そんなに完璧な親だったのか?


 この日、病院の会議で、「救急での研修医たちの仕事の漏れが多い(適切な科に紹介してこないとか、そういう話)」というのが問題になっていたのだが、そのなかで、「研修医をキツイ目に遭わせるのが『教育』なのだ」と勘違いしている「偉い人」が少なからずいることに愕然としてしまった。
 「自分が研修医の頃は、もっと大変だった」
 僕はこういうのって、本当に不思議でしょうがないんだけど、自分がつらかったのなら、どうして次の世代の連中を同じ目にあわせようとするのだろうか。ラクに楽しく、とはいかない業界なのは百も承知ではあるけれども、負担を減らせるようにサポートする体制もつくろうとせずに「そのくらいキツイのが当然。ミスをするな」では、あまりに不合理だと思う。

 そもそも、この人たちが毎日のように当直をして救急外来をやっていた時代には、いまほど緊急でできる検査の種類はなかったし、「夜中に診てくれてありがとう」という患者さんが大部分で、ちょっとした言葉のやりとりで「訴えてやる!」みたいなプレッシャーをかけられることはほとんど無かったのだ。
 医者なんて仕事をやっていると、ごく一部の「スーパーマン医者」以外は、キャリアのなかでひとつやふたつ、「あのとき、一歩間違っていたら、自分のミスで患者さんを死なせていたかもしれない」という経験はあるはず。
 そこで、なんとか踏みとどまれたのは自分の実力というよりは、「運」とか「周囲のサポート」のおかげだったと思う。
 たぶん、大部分の人は、そうなのだ。

 にもかかわらず、少なくない数の人が、「自分はこんなに苦労して、ちゃんとやってきた」と他人にプレッシャーをかけようとするのだ。
 自分が以前、「その場」にいたときに、どんな気持ちだったかを、すっかり忘れてしまって。


 そういうのって、あなたの「運の良さ」を「正しさ」にすり替えているんじゃない?
 どうして、他人の不幸を、自分の「正しさ」をアピールする道具にしようとするのだろうか。
 
 正直、こういう事件を「予防」するためにはどうしたらいいのか、僕にはわからない。
 トイレをガラス張りにするわけにはいかないだろうし、多目的トイレに入るために、身元確認が必要にするわけにもいかないだろう。

 僕はこの事件にショッピングモールの責任があるとも思わないのだけれども、まだ、ショッピングモールのトイレにもなんらかの工夫の余地はあるはずだし、この苦すぎる事件を少しでも今後に活かさなければと考えている。
 少なくとも、この3歳の女の子の御両親を責めることからは、何も生まれない、いや、生まれるはずがない。


 最後になって申し訳ありませんが、女の子の御冥福を謹んでお祈りいたします。
 少しタイミングが違っていたら、犠牲になったのは、僕の子どもだったかもしれない。
 そう思うと、悔しくて、悲しくて、うまく言葉にできず、月並みなことしか言えなくて、申し訳ありません。

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