琥珀色の戯言

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「対岸の彼女」

対岸の彼女

対岸の彼女

 久々に1日で単行本一冊読んだような気がします。300ページ近くある、それなりの長さの物語なのですが、全然その長さを感じませんでした。僕は男なので、この小説内での30代女性の実感というのは、いまひとつ理解できないところもあるのだけれど。男視点からすると、ここには本当に「男というのは、女のことを理解できないんだ」という不文律が流れているなあ、とも思いましたし。いや、徹頭徹尾「女性のいま」が書かれていて、僕が読んだかぎりでは、男性キャラで最も印象的なのは、「葵のお父さん」だったから。「女の敵は女」とは言うけれど、女にとって男というのは「愛をひっかける釘」ではあっても、共感の対象ではありえないのかもしれない。

 ここで描かれているのは、「既婚、子アリ」と「未婚、起業家」の二人の女性で、「周りの雰囲気になじめない、でも、それなりに適応しようともがいている」一児の母親・小夜子と、「自由奔放に生きているように見えて、なにかその強迫的な奔放さ」に駆られているような葵という二人の女性の物語なのです。主要登場人物には、もうひとり、葵の高校時代の親友だったナナコという女の子がいます。
 小夜子は、葵の奔放さに魅かれる一方で、「あんなに『自由奔放に』ふるまえるのは、やっぱり家庭人としての責任がないからだ」という軽い侮蔑も持っています。なんだか、勝った気になれない「勝ち組」と、負けを認めたくない「負け犬」との物語、とでも言えばいいのかな。でも、僕にはこの二人というのは、他の「うまく周囲にフィットしている女性たち」よりも、はるかに魅力的にも見えるのですが。
 でも、「適合しているように見える人たち」も、きっとみんな「不適合」の烙印を押されないように、必死に逃げているのだ、とも思えます。

 ああ、この本の感想を書くのは僕にはひどく難しいのだけれど、立場が違えば、人と人との間にはこえられない壁のようなものができてしまう、という隔絶感と、そういう「壁」というのは、結局自分で勝手に「壁」だと思い込んでいるだけなのかもしれない、というその両方の側面があるように思えました。そして、同性だからこそ、そういう「対岸」にいるはずの相手は、姿が見えるからこそ、かえって遠い存在、忌まわしき存在になっているのかもしれない。
 角田さんは、この物語の最後で、ひとつの「希望」を提示して見せました。ただ、僕はこの「希望」に関しても、あるいは、今のバランスを壊してしまうかもしれない危うさがあるのではないか、とも感じるのです。とくに小夜子にとっては。「角田作品にしては珍しい、救いのある話」だと、素直に受け取っていいものなのかどうか。「壁」を超えてしまうことは、果たして幸せなことなのかどうか。角田さんは、もちろんそれを理解した上で書いていると思います。
 「対岸」というのは、「見えるけれど届かない場所」だから。

 僕は映画「マトリックス」を観ていて、いつも思うことがあります。それは「真実」を知ったモーフィアスやネオたちは、果たして幸せだったのだろうか、ということ。あるいは、真実なんか知らないで、ずっと「日常の夢」を観続けたほうが幸せなのではないか、ということです。それは、モラトリアムなんだといわれるかもしれないけれど。

 それにしても、直木賞を取っただけのことはある、読み甲斐のある作品であることは間違いありません。ただ、20代前半くらいまでの人には、よくわからないかもしれないけど。
 ほんのささいなやりとりで人間の「気分」というのが変わっていく場面など、「ああ、確かにこういうので気が変わることって多い!」と、ものすごく頷けますし。

 30代の女性にとっては、「何でもできるし、何もできない」時代なのだろうか…

 そうそう、「別れた友達と連絡を取らない理由」のところは、読んでいてものすごくせつなくなりました。

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