琥珀色の戯言

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【連載】もう、個人サイト業界への「新規参入」の時代は終わった(3)〜個人サイトの限界と衰退 

 僕は個人サイトというものの歴史を考える上で、ある業界のことを思い出してしまう。
それは、「パソコンゲーム」(古くはマイコンゲーム)という業界のこと。
たぶん若い人々には「なんじゃそりゃ?」と思われること必定なのだが、せっかくだから、そういう話を書いてみようと思う。

家庭用コンピューター(以下パソコン。本来は初期のものは「マイコン」と呼ばれたのが一般的なのだが、今回は「パソコン」に統一しておく)」としては、1980年代初期のアメリカでのApple2や日本でのPC8001,PC6001(NEC),FM7(富士通)あたりがパイオニアということになるのだが(もちろん、それ以前にも「パソコン」はあったのだけれど、長くなるのでこの辺からはじめることにしたい)、これらが初めて世に出た頃は、「コンピューターでゲームをやる」ということ自体が、かなりマニアックな趣味だった。なにしろコンピューターそのものが高価だし、取り扱いもけっこうめんどくさくて、敷居が高い代物だったから。
 それでも、「人間の命令通りに『ランダム』を生み出す機械であるコンピューターでゲームをやりたい」というのは、「インベーダー世代」にとっては、ひとつの夢だった。
 そして、多くのパソコンマニアたちは、BASIC、それに飽き足らなくなった者たちは「マシン語」と呼ばれる「コンピューター言語」を習得し、自分でゲームを作り始めていった。
 そうして、パソコンに「ゲーム文化」というのが生まれたのだ。
 ごく初期から、いわゆる「市販ソフト」は存在していたのだが、それこそ「カセットテープに説明書1枚」というような代物だった。
 では、当時の「主流」はどういったものかというと、「パソコン雑誌」に掲載されたプログラムリストを、自力で自分のコンピューターに入力する、というものだった。今から思い出すと、なんであんな非効率的かつ気の長い作業を僕はやっていたのだろう?と疑問で仕方がないくらいだ。でも、あのころは「雑誌のリストを打ち込めば500円くらいなのに、何千円もする「市販ソフト」を買うなんて!という時代だった。それに、雑誌に載っているプログラムのゲームも、市販ソフトも、ごく一部の超大作市販ゲームを除けば、まさに五十歩百歩だったし。その時代は、「芸夢狂人」氏、森田和郎氏などの「自作ゲームのカリスマ」が、パソコン雑誌を舞台に大活躍していたのだ。彼らはもちろん、「個人」だった。
 そんな時代がしばらく続いたあと、「市販ゲーム文明開化」の時代がやってきた。エニックスが賞金100万円のプログラムコンテストを開催し、そこから、中村光一・現チュンソフト社長(受賞作「ドアドア」)や堀井雄二氏(受賞作「ラブマッチテニス」)らが登場してきたのだ。ちなみに堀井氏は、当時はライターとしてこのコンテストに取材に来たのだが、自分でハマってしまって受賞作を完成させたという伝説がある。
 この時代くらいまでは、「ゲーム作り」における「プロ」と「アマチュア」の垣根は、ほとんどないに等しいものだった。「アマチュア」の中から、頭ひとつ抜け出せば「プロ」になれるような気がしていた。僕と同世代の、現在30代半ば〜40代前半くらいのパソコンゲーマーならば、誰でも一度は「いつかゲームを作って、一攫千金!」という夢を抱いたことがあるのではないだろうか。
 しかし、時代はさらに進化していく。ゲームが商売になる、ということがわかってくると、新しいゲームメーカーが乱立していったのだ。そして、「お金になる」ことにより、市販ゲームの質が飛躍的に向上していくにつれて、「個人ゲーム作家」にとっては、アピールが難しくなっていったのだ。大ヒットゲーム「ザナドゥ」を作った日本ファルコムの木屋氏は、【「ザナドゥ」のプログラムリストは、電話帳くらいの厚さがある】と豪語していたが、こういう超大作の前では、個人が趣味で作ったレベルのゲームというのは、到底太刀打ちできるものではなくなってしまった。「テトリス」などのごく一部の例外を除けば。もちろん、ゲームを作るのは、ひとりひとりの才能の集積なのだが、「とび抜けた個人の力」ではなく、「組織としての役割分担」が必要となってきたのだ。
 具体的に言えば、「ドラゴンクエスト1」なら、誰かひとりの天才の力で作ることは可能かもしれないが、「「ファイナルファンタジー10」を、ひとりだけで完成させられる人なんて、たぶん、この地球上には存在しない。もちろんそれは、20年前よりも、個人個人のスキルが下がっているというわけではなくて、要求されるものの水準に、ひとりの力で追いつけなくなってしまっている、というだけのことでしかない。でも、考えてみていただきたい。現代の「ゲーム界のカリスマ」の多くは、「昔の個人の力がゲーム制作に大きな影響を及ぼせた時代に、名前を売ることができた人々」なのだ。おそらく現代に、20年前の堀井雄二宮本茂がいたとしても「優秀なパーツのひとつ」にしかなれないのではないだろうか。
 ごめん、なんだか趣味の話を延々としてしまった。正直、「大手」と言われているサイトでも、今、この時点でゼロから出発すれば、成功することはできなかったのではないかというところはたくさんある。「ポートピア連続殺人事件」がいま発売されても、そんなに売れないであろうというのと同じように。ただし、初期のころに大手サイトを作ってアピールすることができた人たちは、それなりに「権威」になっていたりもする。
 確かに、パソコンのプログラミングに比べたら、いま「ブログを作る」という行為は、はるかに簡単で敷居が低い。でも、その一方で、サイトが「お金になる」ようになってくれば、全体のレベルは飛躍的に上がっていくのだ。例えば、パソコン雑誌の「サイト紹介」のページなどには、5年前には、いかにも「ホームページビルダーで作りました」という感じのサイトが「内容の面白さ」で取り上げられていたのだが、最近取り上げられているサイトには、トップページを観るだけでも、そういう「ビルダー臭」みたいなものが出ているものはほとんどない。綺麗なサイトを作るのが簡単になったのは事実だが、見た目に美しく、オリジナリティのあるサイトを維持していくというのは、やっぱり「廃人的」でなければ難しい。
 パソコンゲームは、より手軽なコンシューマーゲームにシェアを奪われ、コピー問題などで急速に衰退していったが、近年はオンラインゲームに活路を見出そうとしている。
 そして、個人サイトはといえば、5年前の個人サイトの多くは、「自分の知らない世界・業界の新しい知り合いを作る」ことを目標に掲げていたが、現在は、「自分の世界の中の『仲間』どうしで集まって連帯感を強める」ことが重視されがちな印象がある。個人サイトは、ネットが一般化するにつれ、どんどん「ソーシャルネットワーク化」に向かっている。それこそ「名刺代わり」になりつつあるのだ。
 しかし、そうなればなるほど「本当に名前を出して活動できる人」のほうが注目を浴びるためには有利だろうし、「ハンドルネームでひっそりと書いている人」には、(アクセスを集めるという意味では)厳しい時代になっていく一方だ。 
 ただし、個人サイトにも、付け入る要素はある。それは「お金にならないジャンル」(あまりにマニアックすぎるもの)や大手が公には参入しにくい、アダルト系だ。くしくもパソコンゲームがオンラインゲームに活路を見出す前は、売れていたゲームの大部分は、いわゆる「美少女ゲーム」だった。いわゆる「アングラ系」には、まだまだ個人サイトの参入の余地もあるだろう。しかしながら、最近は、サイトは「公器」になりつつあるので、ヘタすればお縄になってしまう危険もあるのだが。そこまでしてアクセスを集めるメリットが「趣味の」個人サイトにあるのかと言われれば、おおいに疑問だ。
 残念ながら、僕を含む一部の「個人サイトフリーク」以外は、「個人サイトだから」という理由で、サイトに対する点数が甘くなったりはしない。それが現実だ。
 テレビゲームだって、初期のころは発売されるゲームの種類が少なかったから、どんなゲームでも一度は選択の対象にしてみたものだが、今くらいたくさんの種類のゲームが出ていれば、まずは雑誌で情報を集めてから、買うゲームを決めるのが一般的になった。せっかく発売されても、発売されたという事実すら知られないままに消えていくゲームだってたくさんある。そして、ゲーム作りの手間やコストはうなぎのぼりにもかかわらず、一部の大ヒット作をのぞけば、「昔ほどゲームは売れない」。 
 堀井雄二を見てから、自分も堀井雄二になろうというのは、もうムリな話。
 堀井雄二になりたければ、堀井雄二が出る前に、なっておかなければならなかったのだ。
 

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