琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「書評」を書く意味

http://d.hatena.ne.jp/akichu/20051106#p1
↑のコメント欄を読んでいて、どうしてなんだろうなあ、とずっと考えていました。僕もときどき本とか映画とかゲームとかの「感想」を書くので。
「素人の感想を読む理由」というのは、僕のなかではけっこうハッキリしていて、ひとつは、素人のほうが「しがらみ」がないために、いわゆるメディア内での批評より率直な感想を述べていることが多いということ、そして、もうひとつの理由というのは、ある物事の「平均点」を算出するには、「より多くの意見」に触れるというのが、ものすごく大事だと考えていることです。
実際、WEB上で後悔されている「書評」や「感想」の大部分は、「とるに足らないもの」であり「情報としての価値は低い」のですが、それが10人、50人、100人と集まってくると、そこには、ある種の「傾向」というのが見出せます。要するに、素人ひとりの「面白い」という意見にはとりたてて意味はなくても、100人中70人の「面白い」という意見の集積には、意味が出てくるのではないか、と。たとえ、その70人のなかで、「単体として読む価値のある意見」は、ごくひとにぎりだったとしても。
世論調査のアンケートでの「街の人の声」を観ても、みんなたいしたことを言っているわけではないのだけれど、それを集計したものには、それなりの「価値」があるのと同じことなのかもしれません。「7割の人が賛成!」と。
しかしながら、「なぜ書くのか?」と問われたら、「自分の記録として」という面もあるにせよ、やっぱり、「この人は観る眼がある!」と誰かに言ってもらったり、共感してもらいたい、という気持ちもあるのです。他人の意見に関しては、「統計的な素材」だと思っているくせにね。
もちろん、ネットの中には自分と好みが似ていたり、この人が薦めるものであれば、ちょっと自分の趣味とは違いそうだけど手にとってみようか、という魅力的な「素人書評家」もいらっしゃるのですけど。ただその場合は、どちらかというと「書評としての魅力」よりも、「書き手自身の魅力」のほうが、影響は大きいのではないかなあ。
いずれにしても、「書評を書く人」は"only one"を志向し、「書評を読む人」は、それを"one of them"だと考えがちであるというのは、間違いないように思われます。
書き手っていうのは、その苦労の割には、得ることができるものは少ない、あらためてそんな気がしてきます。

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