琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「辺縁」を愛する人々

大学生のころ、世間はまさにF1ブーム真っ盛りで、僕も御多分にもれず日曜日の夜に夜更かしをしながらF1を観ていたものでした。でもまあ、正直言って、僕にとって、F1のレースそのものって、あんまり面白くなかったんですよね。いや、よっぽどクルマ好きの人ならともかく、少なくともF1というのはそんなに抜きつ抜かれつのレースになることはほとんどないし、順位が変わるのって、トラブルによるリタイアとかが多いですから。だからこそ、あのセナとマンセルが壮絶に闘ったモナコGPみたいなのは、記憶に残るGPになるのですけど。
まあ、実際にF1中継を観ていても、その大部分は「面白くない時間」なわけです。
でも、当時の僕は、やっぱり「F1好き」だったと思います。そして、当時の僕の興味の対象は、レースそのものやクルマの性能ではなくて、むしろ、「ドライバーの人間模様」だったのです。
だから、オフシーズンのシート争いとか、セナとマンセルの因縁の対決とか、そういう「レースそのもの以外の部分」のほうが、ただクルマが走っているだけのレース中継よりも、僕には心惹かれるものでした。
あの頃は、『F1グランプリ特集』とかを、毎月買って隅から隅まで読んでいましたしね。

ただし、こういう僕のF1に対する向き合いかたというのは、「クルマが走るのをこよなく愛するF1フリーク」からすれば、「邪道」であり、「レースを愛せないようなヤツには、F1を語る資格はない」ものなのかもしれません。確かに、F1の世界では、「レース」こそが中心であり、裏のチームどうしの駆け引きとか、ドライバーどうしの人間関係なんていうのは、「辺縁」でしかないんですよね。でも、僕はそういう「辺縁」のほうが好きで、ずっとF1を観ていました。最近は、すっかり御無沙汰で、ネットをテレビだけつけている、という感じなんですけど。

僕が大好きなテレビゲームに関しても、『BEEP!』がまだセガ御用雑誌で、セガ任天堂陣営に対して大苦戦していた中学生くらいのときには、ゲーム好きの友達と「セガのハードはどうしたら売れるのか?」「セガの宣伝戦略は?」なんていう、まさに「ゲームそのものとはズレた面」についての議論をしていたものでした。そんなことに何か意味があるのか?と言われては身も蓋もないのですが、僕にとっては、ゲームそのものよりも「ハードメーカーの戦略」とか「次世代ハード戦争について考察する」ほうが、面白いときだってあるのです。そして、僕にとっては個々のゲームそのものも大事なのですが、自分がリアルタイムで観てきた「ゲームという文化の進化」という歴史そのものが、すごく大事なんですよね。どんな人が、どんな思いで、どんなゲームを作ってきたか、とか。
「ゲーム進化史」なんていうのは、「ゲーム」という文化のなかでは、まさに「辺縁」でしかないのですが。

実際のところ、F1なんていうのは、むしろ「辺縁」のほうが大きなマーケットなのではないかと(とくにセナが独走していたF1ブームの時代には)僕は思います。「クルマ好き」よりも「セナに逢いたい人」のほうが、よりF1にお金を落としていた時代もあったのです。
そして、ゲームにしても、実際に業界を支えているのは、「ゲームばっかりやっている人」だけではなくて、僕みたいに「ゲームのプレイヤーとしてはセミリタイアしてしまっているけれど、ゲームが好きだから、ついつい面白そうなゲームが出ると買ってしまうオトナ」なのでは、と思っているのです。それでも、僕が社会人としてのすべてを犠牲にしても遊び続けたいと感じるゲームがどこかにないものか、という妄想もあるのですけどね。

もちろん、「中心」がつまらないと「辺縁」だって面白くなりようがないのですけど、世の中には、「辺縁に、より魅力を感じる人」というのは、けっして少なくはないのです。そして、その文化が商業的に生き延びられるかは、いかに「辺縁を愛する人々」に妄想を抱かせることができるかにかかっているのではないか、という気がします。

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