琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「いただきます」を考える。

最近話題の毎日新聞の記事
考:「いただきます」って言ってますか?
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20060121ddm013100126000c.html

「あんた何様?日記(1/21)」
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=45126&pg=20060121

「永字八法(1/23)」
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=45126&pg=20060121

僕は現在でもなるべく「いただきます」と言っているのですが、それはどちらかというと「習慣」に近いもののような気がします。でもね、幼稚園の頃まではとにかく僕はすごい偏食で、食べるということ自体が、あんまり好きじゃなかったんですよね。とくに肉とか魚は全然ダメで、カレーライスでも肉をよけて食べていたりしていました。あの「生きている牛さんや豚さんやお魚さんを殺して食べるなんて…という罪悪感が強かったし、そのときの動物たちの気持ちを考えると、とても食べられない…」という感じで。焼鳥は悪い鳥がなるものだと思っていたんですよねバカみたいですが。そもそも、悪い鳥ってどんな鳥だよ、と。結局僕はそのまま菜食主義者になることもなく、いつのまにか肉も魚も大好きになって、今はその分を取り返してあまりあるくらいの殺生を行っているわけですが。それでも、「活き造り」とかは、正直あんまり気乗りがしない食べ物です。「ほら、動いてる動いてる」って言う人の気持ちはいまだにわからない。
実際食べられる立場からすれば、相手が感謝してくれればそれで納得できるってものでもないでしょうし(そこまで「擬人化」してしまうと、何もできなくなるんだけどさ)、そういう食事の際の儀式が宗教的なものと結びつきがちであるという意見は、わからなくもないのです。でも、僕は「金払っているんだから、『いただきます』はおかしい!」という人よりは、自分が食べるものに対して、それが相手に対する「救い」にならないとしても、「いただきます」と言う人のほうが好きです。
「お金を払っているのだから」というのは、それはそれでひとつの見識ではあるのですが、僕はどうも「客だから威張っていい」という考えかたには違和感がありますし。というか、現代社会では、あるシチュエーションでは「客」であっても、別の状況では「サービスを提供する側」になるということは、ごく当たり前のことです。シンプルに言ってしまえば「俺は客だぞ!」と怒鳴り散らす人というのは、「他人の立場を理解しようという努力を放棄している人」にしか見えないんですよね。逆に、自分が客の立場であればこそ、サービスを提供する側も気持ちよくサービスできるように気を配ってあげるべきではないかと僕は考えます。要するに、自分がされてイヤなことを他人にはするべきではないし、自分がされて嬉しいことは、なるべく他人にもしてあげよう、ということです。
 そもそも、そんなところで「金払ってるんだから!」と大声でクレームをつけるくらいしか自己主張の方法を持たない人が、魅力的な人物だとは思えません。本当は、金を払っている、優位な立場だからこそ、より一層謙虚にふるまうべきなのですよね。外食をしていると、執拗に細かいクレームをつけている人に出くわすことがありますけど、周りからみたら、「何この人?」っていう感じでしかないのです。本人は「客としての権利」を主張しているつもりなのかもしれないけれど、それって、ネット上で「正しいこと」を振りかざして威張り散らしている人と同じで、周囲に「友達にはなりたくないタイプ」であることをアピールし、軽蔑されているだけなのに。

 宗教観とか倫理観とかの問題はあるのでしょうが、「金さえ払えば、好きにしていいんだろ?」という人より、「自分が客の立場だとしても、食事を作った人にも良い気持ちになってもらいたい」と思う人のほうが、僕は好きだし、単純に、カッコいいと思うんですよね。僕が「ごちそうさま」と言うようになったのは、倫理の問題というよりは、大学のときにそうしている先輩の姿を見て、カッコいいなと感じたから、というだけのことですから。でも、それだけのことでも、なんだかけっこうスッキリするというか、「ごちそうさま」って言える自分に少し自信がついたりするものですよ。
 それにしても、「人を殺してはいけない」とか「食べものは大事に」なんていうのは、「宗教」以前の問題ではないかと思うし、逆に、そういうところくらいは、「宗教的」であっても構わなのではないかなあ。

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