琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

もう、「マイノリティのもの」ではなくなったインターネットへ

http://artifact-jp.com/mt/archives/200602/netglobalism.html

 思いついたことをだらだらと。そういえば、マイコンというのが出始めた時期というのは、本当に「マイナーな趣味」であって、それこそ、「えーっ、家でそんなことやってるなんてくら〜い!」と後ろ指をさされるような趣味だったのだ。まあ、当時のマイコンなんて本当にユーザーに対して素っ気ないもので、今よりはるかに低機能にもかかわらず操作は難しく、それこそ「使う側も勉強しないと何もできない」ようなシロモノだった。僕はシャープのX1というのを使っていたのだが、あれは「クリーンコンピューター」という思想に基づいてつくられていたため、マシン語のゲームを直接起動するとき以外は最初にBASICのテープを入れなければ本当に何もできず、最初に家にX1がやってきた日には、それこそ徹夜でなんとか「キーボードを叩くと文字が画面に表示される状態」にしたものだ。それに比べたら、今のパソコンなんて、サルでも操作できそうな気がする。もっとも、僕の現在のスキルとモチベーションはすでにカエルくらいに低下しているのだが。ビデオにしても、一昔前のものはチャンネル設定が鬼門だったのだが、今はほとんどセミオートでやってくれるのだものなあ。
 しかしながら、そういう時代には、ものすごいめんどくささと引き換えに、「マイノリティの矜持」みたいなものが存在していたのも事実だ。そもそもテレビゲームという趣味だって、最初に出てきたころには、ゲームが趣味の男というのは、嫌われる男子像のトップ集団を形成していたし、僕くらいの30代半ばくらいだと、「大学までゲームなんてしたことがなかった」とか「スーパーマリオだけはやったことがある」とかいうような女子の割合はけっこう高かったのだ。今は、ゲーム好きの女の子なんて珍しくもなんともない。その一方で、「ゲーマーであること」というのは、もうすでに「主張すべき個性」では、無くなりつつある。そりゃあまあ、「程度問題」ではあるんだけどさ。
 電子メールというのも、そういうツールのひとつで、僕が5年位前にはじめてインターネットを知ったときには、とにかくメールが来ると、それだけで嬉しかったものだ。「ポストペット」というツールなんて、「メールをすることそのものが目的」ですらあったのだ。でも、この5年間で、メールは「定期的にチェックしなければならないもの」になってしまったし、メールボックススパムメールで溢れかえるようになった。あのペット達はもう、過労死してしまったにちがいない。「メールをすること」や「メールを受け取ること」には、もう、昔ほどのファンタジーはなくなって、そこには「便利さ」と「日常性」だけが残ってしまった。「メールだから書けること」なんて、もうどこにもないし、「メールフレンド」を募集しても、2通目には「写真送って!」と書いてある。
 僕がサイトを始めた時代には、「自分のサイトを持っている」という事自体が、ひとつの「マイノリティ」であることの証明であり、それと同時に、自分が「特別な人間」であることの証明だったような気がする。まだ、ブログなんて無くて、簡単な自己表現ツールとしては、「さるさる日記」が主流だった時代の話だ。そして、あの時代には、「サイト持ち」同士には、ある種の連帯感のようなものがあったと思う。同病相哀れむ、というのは言いすぎなのかもしれないが、このサイト作りと言うマイナーな趣味にとらわれてしまった哀れな人びとは、ある種の共同幻想を抱えていたのだ。サイトを持っていることには、少しだけ、罪の意識があった。
 でも、このブログ時代になると、「サイトを持っていること」というのは、全然マイノリティの証明にはならないし、むしろ「サイト持ち同士の連帯感」みたいなものは、どんどん薄れてきているような気がする。それは「馴れ合い時代の終焉」でしかないのかもしれないけれど。
 僕は思う。ゲームだって、これだけ「一般化」して裾野が広がったようでいて、僕が20年前に夢想していたような「多様性」はみられていない。アクション、アドベンチャー、シミュレーション、ロールプレイング、パズル、テーブルゲーム。その「枠組み」をはみ出すような、「新しいジャンルのゲーム」というのは、この20年間、結局、生まれてこなかったのではないだろうか。あえていえば「育成ゲーム」とかは新ジャンルなのかもしれないが、これも新しいジャンルとまでは言えないような気がする。結局、ゲームの進化というのは、ゼビウスポートピア連続殺人事件信長の野望倉庫番、麻雀の発展形でしかなくて、この20年間、新しい「祖先」は、生まれてこなかったような気がする。これだけ「ゲーム」というものを愛する人、作る人が多くなったにもかかわらず。「マイノリティの趣味でなくなる」からといって、必ずしもそれに比例して多様化していくわけではないのだ。いやむしろ、昔のマイコン雑誌には載っていた「アイディアは素晴らしいけれど、グラフィックやサウンドに見劣りがするために商品にはならないゲーム」の出番というのは、かえって少なくなってしまった。もちろんそれは、ゲームという存在にもともと宿命づけられていた「袋小路」みたいなものなのかもしれないが。

 本当に「みんながブログを持つ時代」になってしまったら、たぶん、みんな自分のブログにそんなたいしたことは書けないだろうと思うし、なんとなく、そういう時代に近づいてきているような気がしてならない。八つ当たり的に書けば、松尾スズキのブログは3日分くらい書いただけで「週刊アスキー」に大きく取りあげられるが、僕が2年くらい一生懸命書いていたとしても、そんなに大々的に誰かに取りあげられるなんてことはない。書いている人の注目度が全然違うのだからしょうがないのだけれど、3日分しか書かれていないブログそのものの「価値」なんて、そんなにたいしたものなのだろうか。でも、「内容」だけで判断されるような時代は、もうとっくの昔に終わってしまった。
 一般化するに従って、結局、リアルの勝ち組はネットでも勝ち組になりやすくなっていく。それは、インターネットが普及していく過程としてはまさに自然の流れなのだろうけど、この別世界での「マイノリティとしての悦楽」を求めていた人間にとっては、やっぱり寂しいことだ。そして、この世界から、ファンタジーがまたひとつ、失われる。
 オフ会のメンバー集めの手段としてだけのインターネットなんて、いったい何が面白いのかね?

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