琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

袋小路の男

袋小路の男

袋小路の男

 ああ、この本の表題作「袋小路の男」を読んだ男たちはみんな、自分のなかに、こういう「袋小路的」なものがあって、自分は今までの人生で、周りの女性に「袋小路感」を抱かせてきたのではないかな、と思うにちがいない。そしてそのあと、「でも、自分は小田切ほど酷くはないな」と思いなおして、半ば安心し、半ば悲しくなるのだ。僕のようなさえない男でさえ、これを読みながら、もしかしてあの時の自分の態度は間違っていたのではないか?と何度か思ったもの。ただ、そういうのの大部分は、単なる自意識過剰なんだろうけどさ。
これを「プラトニック・ラブ」とか「共依存の話」として総括してしまうのは簡単なことなのかもしれないけれど(しかし、これがプラトニックな愛情なのだとすれば、プラトニックというのは、かえってドロドロしているものなのかもしれない)、なんだかそれもちょっと違うような気がしてならない。どう違うのかを説明しようと思って言葉を探しているのだが、なんだかうまく言えないんだけどね。
 ただ、この話は、「世界の中心で、愛をさけぶ」に比べると、あまりにリアルで、どうしようもない。本当に不毛な関係だと僕だって思うけど、不毛だからこそ永続する関係というのも、たぶん、あるのだ。この世界には「あんな男のどこがいいんだ!」と憤りを感じるような関係っていうのがあるのだけれども、この年になってようやくわかったのは、当事者にとっては「あんな男だからいい」ということなのだ。人は長所ばかりを愛せるわけじゃないというか、好きな子が運動会で1着を取るよりも、転んで泣きながらゴールする姿のほうに愛しさを感じるような人間だって少なくないのだ。僕は自分がコンプレックスをたくさん抱えているから、「欠落したもの」にシンパシーを感じてしまうことが多い。

 なんだか感想じゃなくなってきたな。

 川端康成文学賞の「選評」として、小川国夫さんの

<<袋小路の男>>は純愛物語です。

という言葉が帯に書かれているのだが、「セカチュー」に比べて、この「純愛」は、なんて歪んでいるんだろうか?手に入らないから追いかけて、でも、本当に手に入りそうになってしまうと、それが手に入って失望してしまうのが(あるいは、失望させてしまうのが)怖いから、お互いに「距離を保ち続ける」男と女。でもさ、ほんと、「別れて一生会えなくなってしまかもしれない恋人」よりも、「1年に1回でも、会って『久しぶり』と言える異性の友達」が欲しいって思うことってあるよね。僕だけですか。
確かにこれは、「純愛物語」なのだと思う。「あなたを好きな自分自身への純愛」の物語なのだけれど、それは、ものすごくせつなくて、そしてリアルだ。本当に欲しいのは「ずっと友達でいてくれる異性」ではなくて、「ずっと友達でいてくれる異性がいる」くらい、自分は魅力的なのだという安心感。

 ちなみに、『小田切孝の言い分』は、かえってこの物語と日向子という女性を薄っぺらくしてしまったような印象と、なぜか語り手の視点が転々としてしまっているところがあって、僕はあんまり好きになれなかった。はっきり言って、簡単に妊娠してしまったり、ネットで裸の写真が出回ってしまったりするというエピソードは、「とりあえずインパクトを狙ってみました」って気がするだけで、かえってリアリティを損ねている感じ。とりあえず読者を不愉快にしてみればいいってものではないだろう。
あと、『アーリオ オーリオ』は、『修士がちょっとだけ愛した天体』って感じ。「中年の叔父にマメに手紙を書く女子中学生」という設定そのものが、僕にはまったくリアリティがないので入り込めなかった。

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