琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「偽りの物語」

「まなめはうす(http://homepage1.nifty.com/maname/)」さんに、↓のようなコメントをいただいたのですが、
http://homepage1.nifty.com/maname/log/200604.html#111952p3

唯一疑問に思いたいことは、「偽りの物語」という部分。それを偽りだと判断できる立ち位置は「少数の人々」なのか「外側の人」なのか、そして偽りだと言えるのはどの時なのか、などなどいろいろ考えてしまうところです。

と仰られたのは、確かにその通りだなあ、と感じました。いや、書いている僕がそれじゃいけないとは思うんですけど……
実際のところは、この世界には、単に「いろいろな物語」が転がっているだけで、それが「正しい」か「偽り」かなんて誰にもわからないのかもしれないし、そもそも、「正しい」とか「偽り」かなんて考えること自体に意味がないのかも、という気もするのです。
例えば、オウム真理教にしても、実際にあれで精神的に「救われた」人だっていたのでしょうから、その人たちにとっては、けっして「偽り」ではなかったのかもしれないし、キリスト教だって、少なくとも創成期においては、「偽りの物語」だと多くの人が考えていたと思うのです。「共産党宣言」なんて、発表当時の人々の受け止めかたと、現代人の認識には、かなりの格差があるはずですし。
これを書きながら、「正しい物語」というのは、(1)自分のためではなく、誰かのために作られた物語ではないか?とか、(2)多くの人に建設的な気持ちや心のやすらぎをもたらし、他人に迷惑をかけない物語ではないか?とか、いろんな条件を考えてみたのです。でも、実際のところ、「救済のための物語」が多くの人を破滅に導いたり、「絶対に他人に迷惑をかけない」なんてことは、現代社会においては至難の業です。他人にある種の「物語」を薦めることすら、迷惑だと判断されることも少なくないのだし。

本当にどうすればいいんだろう?と、僕はただ悩むばかりで。

ただ、いろいろ考えてみて、これだけは言えると思います。
とにかくいろいろな物語に接してみること、そして、ひとつの物語に近づきすぎないこと、
たぶんここまでは「正しい」のだと僕は感じています。
でも、こういう「中庸」の人生って、あんまり面白くないかもしれませんね。

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