琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

海辺のカフカ

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

実はまだ未読だった「海辺のカフカ」せっかくのGWなので読んでみました。
しかし、文庫になってから、もう1年以上も経っていたんですね。なんだか、時間が経つのって早いよなあ。

この「海辺のカフカ」に関しては、新刊書で出たときに一度読もうとして冒頭のカラスと呼ばれる少年がどうとかというところでなんだか馴染めずに投げ出してしまい、本そのものもブックオフ行きになってしまっていたのですが、今回も最初の200ページくらいまでは、かなり難渋してしまいました。まるでドラクエの新作のように、「これは村上春樹の作品だから」と自分に言い聞かせながら、なんとか読み進めていくような状況で。
でも、上巻を読むのに2週間くらいかかったにもかかわらず、この本の世界に馴染めてきた下巻は、2日間で読み終えてしまいました。

それで、「感想」なのですが、なんだかね、半分くらいまでは、「なんか村上春樹、性的描写がやたらと多くないか?」などとちょっと食傷気味になっていたのです。それも、少年の性欲がどうとかとか、ペニスがどうとかとか、そんなのばっかり。話の流れにはリアリティが乏しく、登場するキャラクターも、僕にとってはちょっと共感しにくいタイプの人ばかりだったし、「こんな話、あまりにも非現実的だ」と何度も投げ出しそうになったのです。

しかしながら、下巻を読んでいるうちに、ようやく気がつきました。この「海辺のカフカ」は、「小説」ではないんですよね、たぶん。
文中で「オイディプス王」のエピソードが「予言」としてしばしば取り上げられているのですが、「海辺のカフカ」というのは、現代の村上版「オイディプス王」なのではないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20060410#p2
↑で村上さん自身が仰っているように、まさにこれは「物語」であり、一種の「寓話」なのです。そして、その「世界」では、リアリティとかモラルなんていうのは、副次的なものでしかないのです。
他の日本の大部分の小説家の「物語」が、「私小説」の呪縛から逃れられていないのに対して(だって、多くの「小説」を読むとき、「この作家は不倫していたことがあるんだな」とか、ついつい考えてしまうじゃないですか)、村上作品、とくにこの「海辺のカフカ」は、そういう「ああ、これは作者の経験に基づいて書かれているんだな」と意識せざるをえないような部分が、非常に少ない「物語」なのです。まさに「神話」とか「寓話」であるかのように。そして、確かにこの「物語」には、上手く説明できないけれど、ある種の人間の心の乾いていた部分に、しとやかな雨を降らせてくれるような力を持っています。少なくとも僕にとってはそうでした。
なぜだかわからないけれど、僕はこの物語の最後の部分を読んでいて、涙が出てきてしまいました。田村カフカは、僕の代わりに、「それ」を見つけてくれたのかもしれない。
あと、この作品を読みながら、僕は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のことをずっと思い出していました。この2つの作品は、並行した2つの世界を描いているという点では似ているところが多いのですが、その登場人物たちが選んだ「終着点」はかなり異なっています。そしてそれが、村上春樹さんの「世界」に対する向き合い方の変化なのかもしれません。
それと、メタファーについて語っている部分を読みながら、筒井康隆さんのことをちょっと思い出しました。

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