琥珀色の戯言

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「物語」の終わり

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↑の文章を読みながら、「海辺のカフカ」のことを思い出していました。
あの小説がハッピーエンドなのかどうかはよくわからないし、あの「終わり」のあとに、本当の現実的な物語は始まるのかもしれません。どう考えても、あのあとに起こることは「退屈な日常」でしかなくて、たぶん、僕を含む多くの読者は、そんなものを読まされても幻滅するだけなのです。

例えば、吉川英治の「三国志」の本編は、「諸葛孔明の死」で終わっていますし(一応、「その後の三国」についてのまとめも最後に簡単に触れてはあります)、人形劇三国志でも、その「終わり」が踏襲されていますが、もちろん、その後も「歴史」は続きます。劉備たちが造りあげ、孔明が支えてきた蜀の国は、無能で怠惰な2世皇帝の劉禅の失政と、もともとの国力不足から、ジリ貧になって滅ぼされてしまいます。
冬のソナタ」でさまざまな障害を乗り越えて結ばれた2人のあいだにも、いずれは倦怠期がやってくるはずです。もちろんそれは2人が別れなければならないほど深刻なものではないのかもしれませんが、結ばれたときの温度がそのまま死ぬまで保たれるということはないはずです。

三国志」にしても、「冬ソナ」にしても、作者たちは、あの「終わり」を選びました。そして、その「終わらせ方」というのは、作者にとっての「物語の主題」でもあるのです。

結局、「物語」というのは、何かの一部を切り取ったものでしかないのです。
「世界の中心で、愛を叫ぶ」の主人公の男の子は、あんな形で恋人を失ったにもかかわらず、新しい恋人と、新しい物語を始めることを選びました。
でも、それこそがまさに「生きるということ」であり、「現実は物語ではない」ということなんですよね。
小説のように「完結」させることができない現実において、何かを「物語」として完結させるには、もう、「死ぬ」か「消える」しかない。未来が開けているかぎり、物語というのは、完結することができない。

現実というのは、不都合なものだよな、というようなことを最近よく考えています。

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