琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

オタク・イズ・デッド?

http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060527/p2

ニーチェが「神は死んだ」と叫んだ後も、神が地球上からいなくなることはありませんでした。
でも、この言葉が現代にも広く伝えられているのには、やはり、そこに真理が含まれているから、なのですよね。
この言葉は、「神」という存在の絶対性の喪失をあらわしていたわけです。
ニーチェと岡田さんを比較することそのものの是非はあるとは思いますし、僕は直接岡田さんの話を聞いていたわけではないのですけど、僕も、「(今までの意味での)オタクは、失われつつある」と感じています。

いや、例えば20年前には、「アニメ好きの中学生」なんていうのは確実にクラスで浮いた存在で、同好の士たちがクラスの片隅に固まって梁山泊を作り上げていましたし(僕は、そのグループにカテゴライズされるのが怖かったので、ごく普通に「ひょうきん族」の話をしたりしながら図書館でひとりで本ばかり読んでいる中学生だったわけですが)、あの宮崎勤事件を契機に、「宮崎駿以外のアニメファンは、みんな幼女誘拐予備軍!」というような差別も広がりました。レンタルビデオ店でアニメを借りるのすら勇気が要る時代が、けっこう長かったのです。当時の僕としては、「なんで宮崎駿だけはせーフなの?」と非常に疑問に思っていたのですけどね。

しかしながら、ネットの普及で、オタクのマイノリティ度は、非常に低下してきています。
もちろん現在でも、中学校や高校では、「美少女アニメ好き」が羨望のまなざしで包まれることはないと思われますが、少なくとも大人の社会では、「ちょっとマニアックな趣味」に対しても、多くの場合「個性だから」と許容されるようになってきたような気がします。もちろんそういう多様性が認められることは非常に望ましいことなのですけれど、その一方で、「オタクであることを自分への言い訳にする人々」が増えてきたような印象もあるのです。

そもそも、「オタク的な人々」というのは、「オタク」という言葉ができる前から連綿と社会に存在していたわけで、「なんでも鑑定団」ができる前の骨董マニアとか、日曜の昼に山下達郎のラジオを一生懸命聴いているような、「オールディーズマニア」、「オーディオマニア」「天文マニア」というのは、かなり長い歴史を持っているわけです。
でも、彼らは「ちょっと変人」という評価を社会から受けながらも、全体としては、「普通の人」として生き続けてきたのです。

http://d.hatena.ne.jp/umeten/20060528/p6
↑に書かれている内容には、非常に耳に痛いところも多いのですが、「オタク貴族」という言葉には二面性があると思うのです。つまり、「オタク」と呼ばれる前の「オタク」というのは、「最低限の社会性はキープできていた人々」なのではないか、と。そもそも、骨董にしてもオーディオにしても「金のかかる趣味」なので、ある程度生活に余裕がないと、趣味人として生きられません。そして、オタクたち自身も、それが生きがいではあっても、あくまでもそれは「趣味」なのだと認識していたような気がします。そして、彼らの多くは、「自分が価値を作り出す」ことを求めていました。確かに「貴族的」であり「エリート意識」を持っていた一方で、彼らは「対外的にも貴族であること」を自分に課していたのです。それは、けっしてラクではなかったと思います。

それが、いわゆる「オタク」の時代になると、今度は「他人の決めた価値に乗ることによって、優越感を得ようとする人々」が主流となってきます。その作品や対象そのものへの愛情というよりは、むしろ、コミュニケーションツールとして、仲間内で「お前そんなことも知らないのかよ」と言うためのツールとしての「オタク」。そして、ネットによる情報の共有化は、裏を返せば、「お金がなくても、そんなに努力しなくても、誰でも『オタク』になれる」という時代を生み出しました。いままでは足を棒のようにして探していた本がAmazonですぐに買え、幻のウルトラセブンの「封印された回」は、Youtubeでたやすく観ることができるようになりました。
ところが、そのために、ある種の「価値観の転換」が起こってきたのです。
それは、「自分はオタクだから貴族である」という思い込み。

嫌われ松子の一生」の中に、「気がふれてしまった松子が、アイドルにハマってしまい、光GENJIのコンサートで大騒ぎしているのだけれど、その一方で、部屋は散らかり放題でゴミの山」というシーンがあるそうです。先日「夫婦でオンラインゲームにハマって子供放置」なんて話もありましたが、こういう人たちは「オタク」というよりは、「現実逃避の理由として、『オタク』という概念を利用している」のですよね。「オタクだから、部屋片付けなくていいよね」とか「オタクだから、子供の世話なんてしなくてもいいよね」という「自分だけの常識」の創造。
「だって、僕たちはオタクで、『特別な人間』なのだから」
そして、高等遊民になりきって阿片を吸っていたら、いつのまにか阿片窟で野垂れ死に。

オタクというのは、「世間の価値観に従うだけの普通の人々」として「一般化」していく集団と、「新興宗教化」してきて、オタクであることを「免罪符」にしてしまっている集団に分かれてきているような印象を僕は受けているのです。
前者的に「オタクが死ぬ(=正規分布の集団内にとりこまれていく)」というのは、正直、淋しいけれどしょうがないことだと思うのですが、後者のような「オタク教の狂信者」が増えていくというのは、不安でなりません。
もちろん、こういうのって、「オタクだから」というよりは、「もともと精神を病んでいる人たちが、オタク的な行動を対外的にとっている」というだけのことなのかもしれませんが……

でもまあ、「好きなものは好き」だと言える時代っていうのは、けっして悪い時代ではないんですけどね。

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