- 作者: 伊坂幸太郎
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2006/03
- メディア: 単行本
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とても「すばらしい作品」だと思いながら読みました。
人間というのは、本当に愚かでどうしようもないんだけれど、けっして、それだけじゃない。
「8年後に小惑星が地球に衝突し、人類が絶滅する」
という「絶望のまでのタイム・リミット」が発表されてから5年後の世界。要するに「人類全員が余命3年」の世界が、この作品では描かれています。そして、混乱の中をとりあえず生き延びて、少しずつ「希望」を見出す人々、あるいは「絶望」にさいなまれる人々、そして、最後まで「日常」を過ごそうと決心した人々の姿が、この8篇の短編集のなかには描かれているのです。
それにしても、伊坂さんの世界設定の絶妙さには感嘆するばかりで、これが「8年後の絶滅がわかった時期の混乱の話」であれば、あまりに凄惨すぎて読むに耐えないだろうし、「明日が人類滅亡の日」であれば、あまりにメランコリックにすぎて、かえって引いてしまいそうな気がします。大きな波のあと、破滅が見えているのだけれどもまだ少しだけ時間の余裕がある「余命3年」の人々を描くという選択の妙。
僕はワールドカップの日本代表と代表を応援する人たちを観ていて(というか、僕もそのひとりだったのですが)痛切に感じたのは、「人というのは、わずかでも『可能性』があれば、意外とそれを信じてしまうものなのだな」ということでした。
実質的には、日本代表のワールドカップは、(グループリーグ突破の可能性においては)「オーストラリアに1対3で負けた時点で、ほぼ終わっていた」のです。僕はあの試合を観終わった瞬間にはそう思ったし、たぶん、多くの日本人がそう感じたのではないでしょうか。
でも、その決定的な敗戦から少し時間が経つと、「まだクロアチアに勝てば大丈夫」だと思いはじめ、その「勝たなくてはならないクロアチア戦」に引き分けたあとでは、「それでも、ブラジルに2点差以上つけて勝ては、オーストラリアとクロアチアの試合結果次第では…」と「わずかな可能性」を信じて、多くの日本人が朝早くからテレビの前に座りました。
たぶん、オーストラリア戦の前の僕がこのブラジル戦の前の僕を観たら、「お前、バカじゃねえの?オーストラリアやクロアチアにあの程度の試合しかできないチームが、いまさらブラジルに圧勝できるわけないだろ!」と嘲笑ったのではないでしょうか。
結局、人間というのは、けっこう「往生際が悪い」ものなのですよね。
どんな絶望的な状況になっても、「希望」を見つけようとしてしまう。
「生き残るっていうのはさ、あんな風に理路整然とさ、『選ぶ』とか、『選ばれる条件』とか、そういうんじゃなくて、もっと必死なもののような気がするんだ」
「必死なもの?」
「じたばたして、足掻いて、もがいて。生き残るのってそういうのだよ、きっとさ」
この作品のなかで、僕にとってはしっくりこなかったところもあるのです。以前「魔王」の感想(http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20060406#p3)で書いたように、伊坂さんの「小道具のセンス」には、僕にはちょっと理解できないものがときどきあって、この作品では、最初の「終末のフール」の「家族の会話のきっかけとなる、お兄ちゃんのエピソード」は、あまりにも「つまらない」としか感じられませんでした。そして、その「つまらない」エピソードによって物語が展開していくのは、なんだか不満で。トリックも謎解きも完璧なのに、動機が理解不能なミステリみたいな感じ。
でも、そういうちょっとしたマイナス面は差し引いても、僕はこの作品、好きです。
この作品が僕に投げかけてきたものは、「もし『終末』になったら、お前はどう生きるんだ?」ではなくて、「実は、お前が知らない(というか、見ようとしない)だけで『死という終末』は確実にやってくるのだし、『終末を生きる』というのは、『平凡な今を生きる』のと、そんなに違いはないのだ」ということでした。
「終末」は、いつもすぐそばにある。「永遠」と同じように。