琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

加藤紘一アレルギー

はじめにはっきりさせておきますが、僕は加藤議員が発言することそのものに問題があるとは思いませんし、加藤議員の発言に対して暴力や放火で封じ込めようとするような行為には、強い憤りを感じています。

「参拝に反対する理由って、本当はもっとあるのでしょう?」(invisible-runner(8/16))
http://invisible.at.webry.info/200608/article_32.html

↑の文章を僕は頷きながら読ませていただきました。

ところで、昨日からのメディアでの加藤議員の発言に対して、なぜか僕はいちいちカチンカチンときていたのです。自分でも、「なんで僕はこんなに加藤議員が嫌いなんだろう?」と悩みつつ。
それで、一晩たってようやくわかったんですが、加藤議員というのは、小泉首相を批判するときに、いちいち「政治家というものは〜」「政治家として〜」というような「政治家縛り」を発動していますよね。あれがどうも僕にはダメみたいなのです。

「政治家としては、周辺諸国の不快感をいたずらに煽るような行為はいかがなものか」

これって、いろいろと深読みしがちな僕にとっては、とても不愉快なんですよ。
周辺諸国の不快感をいたずらに煽るような行為はいかがなものか」
だけだったら、そうでもないと思うのだけれども。
僕は、加藤さんのあの表情と言葉に、なんだかいろんなものを小馬鹿にしているような空気を感じます。「見下している」とでも言うべきでしょうか。

「(そこらへんの庶民は、感情に流されやすい単純な連中だから、戦没者のために靖国に参拝するのもしょうがないけど、私のような、選ばれた人間である)政治家としては、周辺諸国の不快感をいたずらに煽るような行為はいかがなものか

って加藤議員は内心思っているのではないか、という気がしてならないのです。
発言内容そのものは、「特定アジアの回し者チック」ではありますが、まあ、ひとつの考え方ですし、一概に全否定できるようなものでもないでしょう。「人のいやがることを、わざわざやらなくてもいいんじゃない?」と言われれば、それもそうかな、とも思いますしね。
でも、加藤議員は、こういうことを言うときに、いちいち「政治家として」って前置きする人なんですよね。
「政治家」は「特別な人間」なのだ、という「選民意識」みたいなのが透けてみえるような感じで、すごく嫌なんですよそれが。
 しかも、加藤議員は、毎回毎回、なんとかのひとつ覚えみたいに「政治家」「政治家」って言っているんだもの。好きなんだねえ、自慢なんだねえ、「政治家」が、と。

それに比べると、小泉首相

 小泉首相は15日午前、終戦記念日靖国神社に参拝した理由について「8月15日を避けても批判、反発は変わらない。いつ行っても同じだ。ならば、今日は適切な日ではないか。戦没者の追悼式典も行われる。千鳥ヶ淵戦没者墓苑にもお参りする」と説明した。

 首相官邸で記者団に語った。

 参拝の立場については、「総理大臣である人間・小泉純一郎が参拝している。職務として参拝しているのではない」と述べた。

 また、首相は、自らの靖国参拝への批判は、<1>中国、韓国の反発<2>靖国神社A級戦犯が合祀されている<3>政教分離を定めた憲法に違反――の「3点に要約される」と指摘した。

 中国などの反発については「『中国、韓国の言うことを聞けばアジア外交はうまくいく』(との意見は)必ずしもそうじゃない」と強調。A級戦犯の問題では「A級戦犯のために行っているわけではない」とし、憲法との関係では、「神道を奨励し、過去の戦争を美化、正当化するために行っているのではない。(参拝は)心の問題だ」と語った。

という発言内容というのは、ものすごく「普通の人視点」なんですよね。
「いつ行っても文句言われるんだったら、8月15日に行く!」というのは、一種の「逆ギレ」みたいなものなのかもしれませんが、すごく共感できるんですよ僕にとっては。小泉さんのなかに「選民思想」が全然無いとは思わないけれど、少なくとも小泉首相は、その「臭み」みたいなのをうまく消すことに成功しているのではないでしょうか。だからこそ、小泉首相はカリスマなのだし、「怖い」のだけれども。

 僕は、自分の仕事に対して、「○○とは、こういうものだ」という決めつけを自分から周囲にひけらかす人への嫌悪感があって、「医者としては、命を大切にしていきたい」なんていうのを読むと、「じゃあ、医者じゃなかったら、命は粗末にしていいのかよ」とか、ついつい挙げ足を取ってしまいたくなるのです。人は自分の「立場」から逃げることはできないけれども、誰かに対して何かを伝えるときには、その「立場」というのは諸刃の剣だということは、認識しておくべきなのではないでしょうか。言っている本人にとっては、自分の言葉を強めているつもりなのかもしれないけれど、周りからみたら、「もうちょっと自分を客観的に見てみれば?」というようなことは、けっして少なくないはずです。「じゃあ、医者じゃない自分は、何も言ってはいけないのか?」とか、周囲から反発を招いたりしているようなことも、けっこうあるのかもしれない。
 もちろん、自分自身に対してとか、自分の仕事に対する「信条」を持っている人っていうのは少なくないと思いますし、それを持つことそのものは大事なことだと思うのですよ。しかしながら、それをむやみやたらにひけらかして、その「自分基準」で他者を責める人というのは、なんだかとても感じ悪いんですよね。「政治家として」って言っているけど、本当は、それは「政治家として」じゃなくて、「加藤紘一基準として」なんだろ、としか思えない。
こういうすり替えをやる人は、すごく器が小さく見えます。そんな前置きに頼らずに、自分の考え、自分の言葉で勝負してみればいいのに。

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