http://kenbtsu.way-nifty.com/blog/2006/08/4_2f6f.html
決勝戦というのは大味な、一方的な試合になりやすいと言われているのですが、今日の駒大苫小牧と早稲田実業の決勝戦は、まさに「球史に残る」好試合でした。僕は弱いチームを判官びいきしてしまう性質なので今日は早実を応援していたのですけど、最後はもう、両校優勝でいいんじゃない?と心から思えてきたのです。
↑のサイトで語られているような「甲子園での(とくに投手の)選手の酷使」というのはしばしば話題にされていて、準々決勝が2日間に分けて開催されるようになったり、大会前に選手たちのメディカルチェックが行われるようになったりと少しは改善がみられつつあるのですけど(延長も15回までになりましたしね)、まだまだ過酷なものであることは間違いありません。というか、ずっと1人でマウンドを守ってきた早稲田の齋藤投手に蓄積しているダメージというのは、かなりのものだと思います。
しかし、この「夏の高校野球」という「文化」って、実際のところ、観客や報道するメディアにとっても、甲子園への思い入れというのは、「酷暑の甲子園で連戦に疲労困憊しながら戦い抜く選手たち」という「ドラマ性」に支えられている面がけっこう大きいような気がするのです。「齋藤君、4連投なんてかわいそう…」と言いつつも、その「酷使に耐えて投げぬくエース」というイメージこそが、高校野球を聖なるものにしているのです。「悲劇のヒーロー」が誕生するからこそ、みんな、甲子園に惹き付けられる。みんな、けっこう残酷なんですよね結局。「こんなハードな日程なんてあんまりだ。齋藤が怪我したらどうするんだ!」と言いながら、「齋藤が頑張らなくてもいいようなシステムの導入」に対しては「高校野球らしくない」と拒絶反応を示しがち。
あんなに変化球を投げなくてはならないようなレベルで連投するというのは、投手生命にとっては、絶対にマイナスのはずです。たぶん、田中投手を指名する予定のプロ球団のスカウトたちは、「もうこのへんで、勘弁してくれないかな…」という気持ちになっているのではないでしょうか。
ただ、その一方で、彼らにとっては、ここは「全てを賭けるに値する一世一代の大舞台」であることも間違いありません。僕のような普通の人生を送っている人間としては、ああしてひと夏だけでも「主役」になれるのなら、これで野球生命が終わったとしても、それもひとつの人生なのではないか、とも思えるのです。いや、僕が20代の頃は、そんなこと考えたこともなかったのだけれど、一度でもものすごく輝くことのできる人生というのは、やっぱりすごく羨ましい。
せめて、中1日おいたりできないものなのかなあ、予備日もあっただろうから甲子園はまだ使えるだろうし、とも思うのですが……
ああ、齋藤君、カープに来てくれないかなあ。