琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

この日経の人は、どういう対応をすれば良かったのだろうか?

「ひどすぎる」(by「唄箱日記 (8/23))
http://d.hatena.ne.jp/naoco/20060823/p1

 僕はこのエントリで紹介されている日経の人の対応の酷さに呆れ果ててしまったのだけれど、その一方で、なんだかしっくりこない感じがずっと残っていたのです。そりゃあ、この電話に出た人の態度は「お客様」に対して最低のものだし、あるいは「クレーム処理担当」みたいな物騒な人だったのかもしれませんが……
 あの「子猫殺し」の話については、僕の中では、正直まだうまく結論が出ていません。ですから、あの話そのものに対して、僕は悲しいし怖い話だとは思うけれど、あまり憤りは感じていないという前提で読んで以下を読んでいただければ幸いです。

 それで、このエントリを読んでいて僕が考えたのは、「じゃあ、この日経の人は、どういう対応をすれば良かったのだろうか?」ということでした。おそらく「相手が怒ることに飽きるまで、ひたすら謝りまくる」以外の妥当な対処法って、考えにくいような気がします。でも、「この人が謝る」という行為が、この問題の解決に役立つのかどうかは、甚だ疑問です。もちろん「威力業務妨害」としての効果は非常に高いとは思われるのですが、それって、要するに「数の力で圧力をかける」という以外のナニモノでもないわけで。そもそも、こういう場合に日経に問い合わせの電話をかけても、電話に出るのは下っ端の社員でしかないわけです。もちろん、タヒチの坂東さんは、痛くもかゆきもない(そりゃあ、反応は伝わっているでしょうから、戦々恐々とはしているかもしれませんが)。電話に出ている彼らにはほとんど状況を変える権限はないし、どうしようもないことなのに、電話の向こうの人から「お前の会社は何やってるんだ!」「猫殺し!」と罵倒されまくる。それでも、ひたすら「ごめんなさいごめんなさい」と、同じ会社に所属しているというだけで、自分は関係していなかったことについて、延々と謝り続けなければなりません。
 これって、かなり「精神的にキツイ」状況だと思われます。ずーっとそんなやりとりを続けていれば、キレてもしょうがないかもしれないな、と僕は感じました。
 
 雪印の事件のとき、小売店では末端の販売員たちが、「本当に大丈夫なの?」と責められていましたが、実際のところ、彼らのような「末端の人々」に対して「○○という会社に勤めている」という理由だけで「罵倒OK」だと判断されているというのは、なんだか理不尽極まりないのです。なんらかの組織に所属したことがある人ならわかっていただけると思うのですが、ある程度「連帯責任」という面もあるかもしれませんが、すべての構成員が、組織の端々まで関わっているはずもないのです。
 結果的に僕が目にするのは、「末端の(ほとんど責任のない)社員たちが、大勢の『絶対的正義をふりかざす人々』によって、吊し上げられている姿」であるわけです。雪印の首脳部に問題があったって、牛乳屋のおばちゃんを責めてもどうしようもないだろうに、現実には、そういうことをやっている人が、なんと多いことなのか。
 なんだか、そういうのを見るたびに、「一方的に責めることができる生贄」というのを求めている人たちって、けっこういるのではないか、と思わざるをえません。
 こういうときに、「そんなに直接の関係も無い立場なのに、自分が矢面に立たされたらどうな気持ちになるだろう?」と、みんな考えないのでしょうか。
 そもそも、本当に坂東さんに対して憤っているのなら、タヒチの自宅に直接電話するなり(って、電話があるのか知りませんが)、タヒチまで行って抗議するなりすればいいものを、結局そこまでの「本気」ではないものだから、連絡先がわかりやすいところに電話して、誰だかわからない電話の向こうの人間を罵倒しまくるわけです。純粋に「抗議」したいのなら、電話に出た人相手に抗議するより、メールとか手紙にしたり、自分のブログに書いたほうが、はるかに有意義だと思います。でも、現実的には「本当に何かを変えるための行動を起こす」よりも「自分がいま抱えている鬱憤を晴らす」ほうの優先順位が高い人というのは、本当にたくさんいるのです。

http://cafesta.jugem.jp/?eid=745
↑のエントリを読んで思ったのですけど、「自分が絶対に正しいと信じている集団」というのは、ものすごく怖いものです。ちょっと考えれてみれば、目の前の駅員にはほとんど「責任」はないことだし、彼を私刑にしたところで、何も変わらないなんてことは誰にでもわかりそうなことなのに。どんな重要な会議でも、「電車が遅れた」という理由なら、命まで獲られるようなことはないでしょう。そりゃあ、あなたが超大国の元首でもあるのならそういうこともありえるのかもしれませんが。

 それにしても、こんな「読んだ人が不快になる可能性が非常に高い文章」を敢えて書く坂東さんも坂東さんなら、これを載せる日経も日経ではありますよね。僕は「そんなことをやっていること」そのものよりも「そんなことをやっているというのを世間におおっぴらに公開してしまえること」のほうが、よりいっそう異常なのではないかと思えて仕方ないのです。

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