琥珀色の戯言

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「普通においしい」への嫌悪感

平野啓一郎公式ブログ(11/30)「普通においしい」
http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20061130/1164869939

 この文章を読みながら、僕はある女の子のことを思い出していた。僕は彼女のことを憎からず思っていたし、たぶん、向こうも僕にそれなりの好意を抱いてくれていたのではないかと思うのだけれど、結局、まともに付き合うこともなく離れ離れになってしまった人。
 その女の子の口癖が、「普通」だったのだ。
 例えば、食事に行ったり、映画を観たりしたとき、「どうだった?」と僕が訊ねると、彼女はちょっとはにかんだように「普通です」といつも答えていた。そして、その「フツウ」を聞くたびに、僕はなんだか自分が独りであることを思い知らされるような気がしていた。
 僕が旧い人間だからなのかもしれないけれど、「普通」という言葉には、「これでこの話題はおしまい!」という響きを感じずにはいられない。例えば映画を観たあと「面白かった?」と聞いたときの答えが「面白かった!」であれば、「どのシーンが面白かった?」と話を繋ぐことができるし、「つまらなかった」であれば、その映画を一緒に罵倒することだってできるだろう。でも、「普通」あるいは、「普通に面白かった」と言われてしまっては、「そうか、うん、普通に面白かった……そうだね……」という返事しか、僕にはできなくなる。僕には、他人の「普通」がどんなものかなんてわからない。でも、「普通」というのは、当人にとっては、ひとつの「結論」であり、「終焉」なのだ。そして、人は他人の「普通」の領域には踏み込めない。「そんなの、お前の『普通』じゃないだろ!」と誰かに対して詰め寄ることなんて、できやしない。
 僕自身が、この「普通」を使うときは、やっぱり、「その話にはあんまり興味がないとき」だし。
 言葉としては、全然おかしくないのかもしれないけれど、正直、僕は誰かに「おいしい?」って聞いたときに「普通においしい」って言われたら、単なる「おいしい」よりも少しだけ失望するし、この人は僕に対して、ドアを閉めているのだな、と感じるのだ。「普通です」というのは、どんな問いにも使える万能のカードではあるけれど、そこには、万能であるからこその「それ以上のコミュニケーション拒否、思考停止」の意図が透けてみえることもある。たぶん多くの人は、「普通」という言葉の「誤用」に対して違和感を覚えているのではなくて、「普通です」を受け入れることによって、会話の糸口が断たれてしまうことを嫌悪しているのではないだろうか。言葉としての「正しい」「正しくない」はさておき。

 ここまで書いてきて思ったのだけれど、あのときの彼女と僕との間にあったのは「普通」という言葉に対するお互いのジェネレーションギャップだったのだろうか? それとも、「フツウ」としか答えたくないような、心の壁だったのだろうか?
 いずれにしても、なんだか、いたたまれない「結論」ではあるのだけれども。

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