琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

どうしてブログで「怒り」を表明するのか?

http://invisible.at.webry.info/200701/article_3.html

 非常に耳に痛い話。
 どうしてブログで「怒り」を表明するのか?について書く前に、まず、「人はなぜ怒るのか?」について考えてみます。

(1)自分が直接被害を受けて、抑えきれない怒りの情念が湧いてきたから。
 たとえば、自分や家族が犯罪の被害にあったりした場合は、そりゃ「怒る」と思います。あんまり説明する必要はないでしょう。

(2)自分や家族が直接被害を受けたわけではないけれど、自分や家族も同じ被害に遭うことが容易に想像できる場合。
 子供に対する性犯罪や無差別殺人(オウム事件や池田小事件など)は、これにあたります。被害者の立場に自分を置き換えて、あるいは、同じような状況に自分が置かれることを想像して怒るわけです。これはときに過剰な思い入れを生んでしまうことがありますが、ある意味「人間らしい怒り」と言えるでしょう。

(3)「怒っている」ことを誰かに見せることが必要なとき
 女の子を隣に乗せているとクラクションを鳴らしまくる男とか、みんなの前で特定の部下のミスを大声で責めたりする場合はこれです。あるいは、「怒ることによって、誰かに共感してもらいたいとき」なんてのもそうですよね。「最近のジャイアンツは弱い、原が悪い!」なんて、ひとりで部屋に篭って叫んでいるオッサンはいませんが、球場や居酒屋ではそういう人がけっこういます。自分は直接被害を受けていなくても、「自分が怒っている姿」を見せることによって、他人にアピールし、何かを期待しているというパターン。

 まあ、大きく分けてこの3つでしょうか。もちろん、純粋な(1)だけ、(2)だけではなくて、(1)や(2)は、しばしば(3)を伴います。それにより、本当に怒っている以上に「表面に出る怒り」は増幅されることがあるのです。

 ここで、最初の話、「どうしてブログで『怒り』を表明するのか?」に戻るのですが、僕自身も自分で腹が立ったことを、よくブログに書いています。でも、「本当に実生活で腹が立ったこと」、つまり(1)は、ブログには怖くて書けません。以前に「ヤクで寝かせちゃうよ」と書いて炎上した医師のブログがありましたが、僕はあんなふうに書いてしまう人の気持ちそのものは、わからなくもないんですよね。「怒り」っていうのはどこかで言葉にしてしまえば気持ちが軽くなる面がありますし、身近な人には、弱音って意外と吐きにくいことも多いのです。「自分と関係のない誰か」が聞き役になってくれる(と信じている人が昔はたくさんいた)WEBというのは、「王様の耳はロバの耳!」をやるには、ちょうどいい洞穴のように見えた時代があったのです。今はもう、ちょっとWEBに慣れた人間にとっては、「WEBで『自分の身の回りで起こったことに関するリアルな怒り』を表明すること」の危険性は、広く知られています。だから、(1)は、現在のWEBでは、ほとんど表面には出ない「怒り」です。

 現在、多くのブログに書かれている「怒り」のほとんどは、事件やテレビ番組やスポーツや政治に対する「怒り」なんですよね。もちろんそれらがブロガーたちの生活に全く関係がないというわけではないけれども、少なくとも亀田興毅の「八百長」やDJ OZMAの「ヌードコスプレ」なんていうのは、「私たち視聴者に対する冒涜だ!」なんて声を荒げるほどの「実害」が出ているわけではありません。「イヤなら観なきゃいいじゃん」と言われれば、確かにそうなんですよね。NHKの場合は「金を払っているんだから」という面はあるでしょうが、別にNHKの番組は紅白だけじゃないし。それでも多くのブロガーたちは、そこに「怒り」を表出せずにはいられない。
 個人ブログというのは、けっして無力な存在ではありません。芸能人やテレビ業界の人からすれば、「反応」は気になるらしく、彼らはけっこうそういうブログを観ている場合が多いそうです。それに対して、真摯に受け止めるのか、叩かれるのも「反応」のうち、と考えるのかは千差万別だとしても。
 おそらく、ひとりひとりのブロガーの意見などというのは全くもって無力です。ただし、100人のブロガーが同じ話題について語っていて、そのうち90人は批判的だった、というような「傾向」には、かなり価値があるのです。
 ところが、多くのブロガーにとっては、「自分より大きなものを批判すること」っていうのは、一種の「自分の存在証明」みたいなものじゃないかと思うんですよ。「僕も怒ってるよ!」と世間に認めさせたいんじゃないかな、って。もちろん、大事なのは「怒っている」ことじゃなくて、「僕が」というところなのですが。
 つまり、ブログにおいても、「自分は自分の人生にとっては『主役』だけれど、社会という枠組みにおいては『脇役』にすぎない」というルールに従って、世の中は動いているのです。
 僕はまあ、それで発散できればいいんじゃないかな、と思うんですよ実際のところ。ちょっと腹が立ったことの「捌け口」としてブログが機能して、その人が日々幸せになれるのであれば、そんなに目くじら立てる必要はなかろう、と。そんなことばっかり書いているブログが、多くの人にとっては「ゴミ」であることは言うまでもありませんが、ブログなんて、有名人や社会的影響力がある人を除いて、所詮、書いている本人(+ごく一部のそのブログの愛読者)以外の大多数にとっては、もともと「ゴミ」なんですから。

 ブログ書いたりしている皆さん,怒りをもてあましたときどうしているんでしょうか。やっぱブログでぶちまけると,心からすっきりします?「ああ,俺結局実際には言えない腰抜けだから,こうしてブログで怒りを発散しているんだ。こういう風にして怒りをうまいことなだめて,上手に世間と付き合っていくんだ。せこいなぁ我ながら」って,ふと悲しくなることってありません?それは考えすぎというやつでしょうか。誇大妄想で被害妄想なだけなのか。

 正直、ブログでぶちまけても「心からすっきり」なんてしません。それどころか、内心、「この話題なら、はてなのキーワードからたくさん人が来るんじゃないか?」なんて期待していたりして。あるいは、ネットバトル的なものに対しても、僕のスタンスは必ずしも一定していなくて、相手が本当に僕の常識が通用しなさそうな人とか、あまりに小物で言い返したりするよりスルーしたほうが話が早そうなときなどには(極端な話、誰も読んでないブログからの誹謗中傷は、僕がそれを読まなければ済むことなので)、ムカついても放っておくときもあります(でも、やっぱりガマンできなくて反撃することもあるんですよね、おとなげないことこの上ないのですが)。
 いや、もし亀田ファミリーが、僕のエントリに対して「文句あるなら表に出ろ!」と反撃してきたら、僕は早々に該当エントリを消しますし、襲ってきたら逃げますよ。逆に、ブログでの「有名人批判」なんていうのは、「絶対に反撃してこないであろう相手を一方的に叩いて優越感に浸れる」という面もあるわけで。彼らは、無名のブロガーをひとりひとり相手にしているほどヒマじゃない。僕たちが「正義」を語れるのは、あくまでも「相手が黙殺してくれるという前提」のものでしかありません。

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20061204#p2
↑のような文章を見ると、実は、ブロガーたちが「ブログで自分の意見を社会にぶつけられるという力」を与えられたと思っている一方で、「権力」の側は、「まあ、ブログでも書かせて適度に『ガス抜き』させておいたほうが、結果的には扱いやすいからな」と考えているのかもしれないな、と感じてしまいます。
 でも、僕は「戦争反対」なのだけれど、実際に「戦争反対」のデモを積極的にやっている人たちにはなんとなくシンパシーが抱けなくて、結局のところこうやって物陰から銀玉鉄砲を撃つくらいのことしかできないんですよね。それでも「何もしないよりはマシ」なのかも自信がもてない。どちらかというと、「悲しいし、情けないけど、書かずにいられない、あるいは、こうして書くことしかできない」のですよ本当は。それがいいとか悪いとか、有意義とか無意味とかじゃなくて。
 ちなみに、僕は本当に怒っているときには、好きな本を読むか、『ゲームセンターCX』のDVDでも観て、とにかく時間を先に進めてしまうようにしています。というか、最近は実生活で悲しくなることはあっても、腹が立つことって、あんまりなくなってきました。競馬で外れたり贔屓の野球チームが負けたりしたときに怒るのは、たぶん、「現実では怒れない立場になってしまっているから、そういうものに対して怒ることで代償している」のだと思います。

 賭博には、人生では味わえない敗北の味がある(寺山修司

 たぶん、ブログには、人生では味わえない「怒り」の味があるのです。

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