琥珀色の戯言

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「文学」の定義と「匿名文学」

http://blog.drecom.jp/akky0909/archive/864

非常に興味深いエントリ。
あらためて「文学とは何か?」と問われると、僕はかなり考えこんでしまうのです。
日頃、読む文章を選ぶときに意識するのは、「これは文学か?」ではなくて、「これは面白いか?」ということだけなので。
そもそも、「文学」って言葉そのものが、「こんなのはブンガクじゃねえ!」というような罵倒の場でしか使われない言葉のような気もしますしね。
揚げ足取りみたいなことばかり書いていてもしょうがないので僕なりの「文学の定義」を書いておきます。
「自分が文士だと思い込んでいる人間が書いた文章」
これが、僕にとっての「文学」です。
それでは読者側には判断できないじゃないか?と思われるかもしれませんが、僕は読む側には定義する意味も必要性もないと思うのです。「これは文学だ」なんてジャンル分けをしたがるのは、「本を読めるフリをしたい人」の悪弊でありまして、そんなの「良いか悪いか」「面白いかつまらないか」「自分や社会にとってインパクトがあるかないか」で語ればすむことですしね。いや、現代で本物の「純文学」とか追求している人は、たぶん全然食えなくて近所のコンビニでレジ打ってますよ。

僕は匿名作家にも「文学」は書けると思っています。
いやむしろ、「匿名でも書かずにいられないような人」のほうが、本質的には「文学的」なのかもしれません。

 ちょっと脱線していきますが、舞城王太郎さんのような「覆面作家」は果たして「匿名」なのか?
彼の場合は、顔がわからないので路傍で「あのイカれた(褒め言葉なのでファンの皆様は怒らないでね)小説を書いている人だ」なんて言われることはないでしょうけど、その一方で、彼自身は『舞城王太郎』が書いたものに対しては、きちんと「責任」をとっているので、「匿名」とは言いがたいでしょう。そりゃあまあ、「顔出し」でメディアなどでガンガン発言している村上龍さんとかに比べればリスクは低いでしょうが、逆に、作品だけで食べていかなくてはならない、というリスクも背負っているのです。直木賞芥川賞を獲った「ベテラン」の重要な収入源として「講演」があるわけですが(1講演あたり50万とかいう世界らしいですよ。ちなみに筒井康隆さんは、講演料は1時間100万円と公言されています)、「覆面」でいるかぎり、そういう副業で稼ぐこともできません。
 今の情報化社会というやつは、小説を「作品そのもの」というより、「それを書いている人への興味」で売るシステムにしてしまったように僕には思えます。柳美里さんとかの作品はまさに「自分の切り売り」だし、劇団ひとりさんの小説も、素晴らしい作品ではありますが、知名度の低い小説家が書いたものであれば、あそこまでは売れなかったでしょう。もちろん『東京タワー』も。綿矢りささんの『蹴りたい背中』だって、あの娘さんが書いたからあれだけ話題になって売れたわけで、その陰には「著者が地味なために売れなかった良い小説」だってたくさんあるんですよね。
 村上春樹さんが最近ちょっと逡巡しているように見えるのは、村上さん自身が、「作家の人間性」とリンクして語られることがないような、純粋な「物語」を書こうとしているからなのではないか、と僕は最近考えるようになりました。村上さんの作品は、日本の文学作品としては「作家の実体験」を仄めかすことが少ないものなのですが(でも、村上さんの商品としての小説の「代表作」は、いちばん「実体験的」な『ノルウェイの森』なんですよね)、『ねじまき鳥クロニクル』をターニングポイントに、『海辺のカフカ』『アフターダーク』と、さらに「作家の顔が見えない作品」を指向しているように僕には思えます。ただ、今の世の中というのは、村上春樹といえども、純粋に「作品だけでの評価」をしてもらうのは難しいのかもしれません。すでに「村上春樹ブランド」でもありますしね。村上龍さんみたいに「書いてある内容は千差万別でも、全部語り手は村上龍」みたいな人もいるのですけど。

 ただ、僕は最近「良い小説」そのものがわからなくなってもいるのです。『メッタ斬り リターンズ』で高評価だった『雪沼とその周辺』を読んでみて、僕なりに「たしかに良い小説だ」と思ったのですけど、その一方で、「あまり本を読まない人がこれを読んでも、あんまり面白くないだろうな」とも感じたんですよね。「ここで結末までくどくど語らないのがいいところなんだ」と、僕のように日頃から「クドイ小説」に慣れている人間は思う部分を、日頃あまり本を読まない読者にとっては、「そんな尻切れとんぼな終わり方をせずに、最後まで書けよ」と感じるのではないかと思いますし。僕は日頃からYoshiさんの書いたものとか『リアル鬼ごっこ』を、「こんなの読んで喜んでる低次元な連中の気が知れない」なんてバカにしているのですけど、そういうのって、ハンバーグを好きな子供を、「お前らは味音痴だ!」って罵倒している嫌味な食通のオッサンみたいなものですよ。考えてみれば、子供がハンバーグを好きなのはしょうがないだろ、と。いきなり松茸の土瓶蒸しとか食べ始めたら驚愕するよ。
 「文学通」っていうのは、「もうサーロインステーキは食い飽きたから、お茶漬けが食べたいな」という人々なのかもしれないと思うのです。『美味しんぼ』で、「究極のもてなし」として、きれいな水と粒揃いの米で炊いたお粥の話が出てくるのですが、そういうのは、「いろいろ食べつくしてしまった人」相手にだから通用するという面もあるのではないでしょうか。僕だったら、いくら丁寧に作ったお粥が美味しいとしても、やっぱりせっかくだからステーキとか大トロを食べたいし、いくら心づくしでも「お粥」が出てくれば、寂しい気分になると思うもの。

 なんかものすごい脱線ですが(たぶんここまで辿り着いたのは、読み始めた人の2割くらいか)、本筋に戻ると、僕は匿名で物陰からチクチクやることぐらいしかできないような人間にとっての最後の自己表現の手段が「文学」なのではないかと思うのです。旧い話なのですが、『土佐日記』なんてわざわざ偽名でネカマになって(って、「ネカマ」じゃないですね)書いているのだし、自分に自信も特技もないけれど、とにかく何か表現したいという欲求のカタマリを抱えている人がやむにやまれず書いてしまうのが「文学」なのではないかと。まあ、今はその役割は、「文学」より「ブログ」とかに移ってきているわけですが。そして、「匿名でしか書けないような腰の引けたヤツはダメ」なのかもしれませんが、「匿名」の人の多くは、「書かなくていいこと」や「書かないほうが安全なこと」を、耐えきれずに書いているわけです。それこそ、自意識の解放という以外の何の見返りもなしに。実際は「お金くれるんだったら、実名くらい出すよ」って人も多いのではと思いますが。それに、「匿名性」を否定されてしまったら、今までWEBで公開されてきた「自分の立場を失うのは怖いけれど、世間の人に知ってもらいたいという衝動を抑えきれない」という人々の作品を読むこともできなくなってしまいます。ただ、現実問題として、現代のネット社会での「匿名性」なんていうのは、「本人が匿名にしていること」よりも「周りがいちいち本気で詮索しないこと」によって成り立っているんですけどね。
 僕は小心者が内面に一生懸命に張り巡らせた「物語」を読むのが好きなので、「文学者的な生き方」を小説にして切り売りしているような作家はあまり好きではありませんし、「せめて書くことくらいは、匿名で参加させてくれよ」と考えています。
「書いている作家の実体験かどうかが気になる小説」よりも、「誰が書いたかなんてどうでもいいくらい面白い小説」が読みたい。安直なノンフィクションが溢れている時代だからこそ、良質なフィクションが必要なのに。

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