琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

それは「社会に対する責務」なのか?

http://invisible.at.webry.info/200701/article_9.html

 僕自身は、この件に関して「そんなのいちいち『結果』をアナウンスする必要なんてない」と思います。いや、小学生とかが「どうなったのか知りたーい」とか言って騒いでいるのなら理解できなくもないのですが(でも、僕の子供だったら叱り飛ばします)、こういうのって、「アナウンスしないというのが、ひとつの答え」なのでしょうしね。正直、そういう状況で「亡くなっていた」ということから僕が想像する死因というのは、「自殺」とか「事件に巻き込まれた」というものですし、もしそうであるならば、今の日本の社会からすれば、家族の今後の人生のことを考えると、それを大声でアピールすることにメリットは全くなさそうです。もし仮に自殺だとしたら、こういう「社会に対する責務」とか言う人って、「勝手に自殺したのに、みんなに探させるなんて社会に対する迷惑行為だ」とか言い出しそう。
 僕がこういう人々に対して感じるのは、「想像力の欠如」と「卑怯さ」でしかありません。
 もし自分の家族が同じような状況に陥ったら、社会に助けを求めないのか? そして、不幸な結果であったとしたら、それを社会に報告するという「勇気」や「気力」があるのか? はっきり言って、いまの世の中、「社会に助けを求める立場」になる可能性なんて、誰にでもあると思いますよ。満員電車に乗っているだけで痴漢冤罪事件に巻き込まれるかもしれないし、身内が通り魔の被害に遭ってしまったばかりに、家族の秘密が面白おかしく連日ワイドショーで取り上げられる可能性だってあるのです。そもそも、「息子が医学部の試験に受からなくて引きこもっている家」とか、「お互いにエリートにもかかわらず、仲が悪い夫婦」なんて、全然珍しくないと思うもの。そして、そういう他人の不幸に対して「察してあげる」ことこそが、人間らしさなのではないかと僕は考えているわけです。自分にうつるかもしれない伝染病でもなければ、赤の他人の死因なんて知らなくても全然困らないわけだしね。また、こういう人に限って、癌で亡くなった人の遺族の目の前で、「俺は健康診断受けなくちゃ」とか平然と言い放ったりするわけです。ほんとにねえ、そういうのって、遺族の前で言う必要は何一つないどころか、聞いたほうは、「自分たちが健診を受けさせなかったのが悪かったのだろうか?」とか、いちいち考えてしまうわけですよ。でも、こういう人って言いっぱなしで、遺族の気持ちなんて全然想像できないんだよね。そして、遺族としては、こんな人間が故人の「友人」であったことに、またいっそう悲しくなってしまうわけで。

 そして、僕が最も疑問なのは、こういう人たちの多くが、「社会に対する責務」というような、大きな枠組みをあたかも自分が代表しているように語っているということなんですよね。じゃあ、お前が言うところの「社会」とは何なのだ?と僕は言い返したくなってしまいます。いや、この人が、「僕はどうしても気になるので教えてください」と言うのであれば、バカだなとは思うけれど、そんなにイヤな感じはしないんですよね実際。あるいは、「僕は一生懸命探していたので、結果を知る権利がある」と主張するのであれば、「不躾なヤツだな」とは思うけれど「卑怯」だとは感じません。結局、こういう連中って、「社会」っていう曖昧な基準を隠れ蓑にして、自分を「正義」だと思わせたいだけなんですよね。「社会」からすれば、お前になんか代弁されたくないだろうに。でも、こういうときに「自分」を出すと自分自身に延焼してしまう可能性があるために、多くの「社会派くん」たちは、あえて「社会としては」なんて錦の御旗を掲げてみせるのです。というか、こいつらの大部分は「社会」なんてどうでもよくって、ただ単に困っている人をさらにドブに叩き落し、ドロだらけにして快哉を叫びたいだけなんですよ。「社会」を代弁できるほど偉いのなら、せめて家の周りのゴミくらい拾ってみろよ。僕は自分が「社会」のごくわずかな一部を担っていると思っているけれども、僕にとって生きやすい「社会」というのは、こういうときに「お前が協力を求めたんだから、すべて詳細に報告しろ!」というような「社会」じゃなくて、「言わないっていうことは、言いづらい事情があるんだろうな」と察してくれる「社会」なのです。どうせみんな「自分たちは常に『知る権利』をふりかざす側なんだから」と考えているのかもしれないけれど、じゃあ、今さんざんプライバシーを暴かれまくっている歯科医一家やエリート夫妻は、自分たちがそんなふうに注目される存在になると、事件が起こる前に予想していたと思いますか? 自分が常に「知る側」だという保証なんて、どこにもないのです。「死んでいくのを見るのが面白いから、1万人に1人の生贄くらい出してもいいじゃん」とか言っているのと同じことじゃないのかね。確率は低いのかもしれないけれど、次の生贄は自分や自分の大事な人かもしれないとは思わないの? 
 本当に正しいことだと思うのなら、「社会さんはこう言っています」なんて預言者のフリをするのではなく、「僕はこう思う」って書くべきです。自分の言うことに自信がないから、「社会教の信者代表」として自分の薄っぺらさを隠そうとするんだよ。
 メディアは政治家や公務員の不正を例にあげて「知る権利」「報道の自由」を語り、実際に「報道」することの大部分は視聴率を稼げるワイドショー的事件で、身内の不祥事になると「プライバシー」「個人情報」を語りはじめます。いや、「知る権利」って言うけどさ、それって、夫婦の問題とか家族の問題レベルでは、「権利があってもあえて行使しない」っていう選択肢はないの?「視聴者が知りたがっている」確かにそうなんですけどね。ほんと、下衆な話だ。

 僕は、「社会」を構成している個々の人間たちには、「家族がいなくなって困っている人たちがいたら、その人を見かけたら教えてあげようと心がけるくらいの善意」とか「病気の子供の話を聞いたら、『死ぬ死ぬ詐欺』に騙されてもいいから100円くらい寄付してあげるくらいのささやかな善意」があってもいいのではないかと考えているのです。お互いに「反社会的な部分」をあらさがしするような世の中は、あまりにも不毛すぎる。

 僕は基本的に「社会は」「日本人は」「人間は」「僕たちは」(これは実際僕もよく使うんですけど)「常識的には」というような書き方をする人を信用していません。そんなハッタリに頼っている人が書いていることに限って、「僕の主観」「私の考え」だったりするから。自信がないから、大きな枠組みを自分が代表しているように書いている、自分を大きく見せたいだけの小さい人間の常套句。
 本当に誰かに伝わるものを書こうとするなら、「私が思うこと」を書くべきです。というか、真剣に考えれば考えるほど、人間には「私のこと」しか書けなくなるのではないかなあ。

 あと、付け足しっぽくて申し訳ないのですが、僕が葬式の喪主となったときには、やっぱり「なんでこんな心境のときに、周りの人に気を遣わなければならないのだろう?」と、すごく疑問だし、辛かったのを覚えています。
 でも、あれから何年も経って、ひとつの記憶として考えると、ああいうどうしようもなく辛くて悲しいときというのは、とにかく何かをやって時間をやり過ごすことも必要だったのかもしれないな、という気もするのです。そういう意味では、目の前に何か「やらなければならないこと」を作っておいてあげるのは、遺された人々がこれから生きていくための昔からの「ひとつの知恵」なのかもしれません。

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