琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

『魔法伝説』と「自費出版」をめぐる雑感

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20070116/fantasynovel

↑のエントリを読んで考えたことなど。
Amazonで「なか見検索」ができるので、あれこれ言及する前に、純粋に「小説」としてこの『魔法伝説』という本を読んでみたのですが、少なくとも僕はこれを1365円というお金を出して買って読もうとは思いません。率直に言うと、1万円あげるから読んで、と頼まれれば読むのもやぶさかではないかな、という感じです。主人公「ローナは……」という客観視点で描かれているはずの物語なのに、途中で「作者の主観」らしきものと「ローナの感情」らしきものがゴチャゴチャになってしまって誰のことが書いてあるのかわからなくなっていますし、文章も「小説」というより、「シナリオ」というか、全部あらすじみたいな語り口なんですよね。主要サブキャラクターを紹介するときに「○○は親切な感じ」「○○は秀才タイプの努力家らしい」なんて、いきなり「説明」してしまっているレベルですから、「表現力」も推して知るべし。そういう説明的な言葉を使わずに、行動や言葉でキャラクターの性格を読者に想像させるのが「小説」だと僕は考えています。
 いや、もしかしたら「なか見検索」で見られるところから先は、急にすごい小説になっていたりするのかもしれませんけど。
 この「小説」に対する僕のスタンスは、「中学生でこれだけのものを完成させたのはたいしたもの」で、「もし自分の周りの人だったら、『よく書けたね』『すごいね』と褒めてあげたい」というくらいのものです。僕にとっては「商品価値」があるレベルの作品ではありませんが、このまま書き続けられたら「化ける」可能性だってあるでしょう。200枚の小説を書けるというだけでも、それはひとつの「才能」だと思いますしね。「書けない」人よりは、よっぽど可能性はある。
 ただ、その一方で、このレベルの作品がこんな形で世に出てしまったというのは、彼女にとって不幸なのではないかな、とも僕は思います。

http://www.outdex.net/diary/archives/2007/01/post_440.shtml
↑で、綿矢りささんが「自分の作品が世に出るまで、『書評』というものの存在を知らなかった』と語っていたという話を読んだのですが、もしかしたら(あくまでも仮定の話ですが)、綿矢さんの作品というのは「書評馴れ」していなかったからこそ書かれたものだったのではないか、あるいは、もし彼女が創作者になる前に、「書評で叩かれている作品たち」を読んでしまっていたら、創作そのものに対して恐れを抱いてしまったのではないか、などと、僕は考えてしまうのです。まだ未熟な時点で世に出てしまったがために潰れ、あるいは潰されてしまった才能というのは、けっして少なくありません。ただ、こういう中学生がすべからく綿矢りさになれるわけもなくて、「野球漬けの中学生が、プロ野球選手になれるくらいの可能性」でしかないんですけどね、所詮。でも、「プロ野球選手になりたい」と夢をみることは、別に悪いことでもなんでもないし、そういう「夢にとりつかれた底辺」がなければ、頂上に行く人も出てこないのです。

 この話題に関して「自費出版」そのものが叩かれているような風潮もあるようですが(id:kanoseさんは、あくまでも「著者に過剰な期待を抱かせて暴利をむさぼるタイプの『自費出版』『共同出版』」について言及されてます)、確かに、「こんなものが売れるわけがない」のは事実なんですよね。自費出版本というのは、
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20061110
↑でジュンク堂の田口さんが書かれているように、著者がどんなに熱烈に「売りたい」と思っていても、出版社側にとっては「売れなくてもいい本」であり、書店にとっては「あまり売りたくない本」でしかないのです。読者も「聞いたことがない題名、知らない作者、装丁が安っぽくて、しかも割高な本」を好きこのんで買う人はほとんどいないでしょう(「と学会」の人たちくらいか?でも、あの人たちも「芸として成り立っているトンデモ本」にしか興味を示さないからなあ……)。

 でも、その一方で、「自費出版」という選択肢そのものはけっして「悪」ではないという気もするのです。「自費出版でベストセラーを出すより、文学賞に応募してメジャーから出版したほうが、よっぽど小説家への近道」だというのは、何度かここにも書いた通りです。しかしながら、「本を出したい人」全員が、メジャーな文学賞に入選できるわけがないし、「商業出版」の価値があると認められるはずもありません。「職業作家になりたい人」にとっては「自費出版はカモにされるだけ」なのですが、お金を稼ぐことよりも、とにかく自分の本を出したい人にとっては、「自費出版のほうが近道」ではあるんですよね。ただ、「なぜ安上がりな同人誌ではいけないのか?」というような話になると、やっぱり、「同人誌ではAmazonでも買えないし、全国の人が手にとってくれる可能性もなくなるから……」とか、考えてしまうのでしょう。実際はそんな本をわざわざAmazonで買ったり書店で取り寄せてくれたりする人はほとんどいないに決まっているのですが、ほんのわずかな「可能性」でも、「もしかしたら……」というような夢をみてみたいんですよたぶん。
 それを、売る気もないのに「チャンスはいくらでもあるんですよ!」と宣伝する出版社は不誠実なのでしょうが、何百万か遣っても、そういう「夢」がみられるというのは、そんなに悪いものでもないのかもしれません。「(私は)いい作品だと思います。ぜひ出版すべきですよ!」っていう「感想」を言うのは、違法でもなんでもないですしね。「何万部売れますから!」と保証してくれているわけでもないし。
 こういうのって、傍からみれば「そんなの売れるわけないじゃん」ってすぐわかるのだけれど、なかなか自分のことってわからないものなのです。だって、お金はかからないけれど、こうして何十万、何百万って数の人が、「どうして自分のブログにはあんまり人が来ないのだろう(「俺の」ブログなのに……)」と疑問に思いつつ、ブログを書いているのだから。他人が書いているものは「こんなブログ、わざわざ読みに来るヤツいないだろ……」と冷静に判断できるにもかかわらず、自分のことだけは「特別」だと考えてしまいがち。
 僕自身は、「商業出版」と「同人誌」のあいだに、「共同出版」とか「自費出版」という存在があるのは、けっして悪いことではないと思うのです。それが「売れる」ことの困難さを出版社側がきちんと説明し、顧客も「そんなに甘いものじゃない」と理解して出すのであれば。実際は、それでもそんなにお客さんというのは減らないんじゃないかと思います。この世の中に生きていて、自分の「爪あと」みたいなのを残すのって、子供をつくるか、本を出すか(あるいはものすごい偉業か犯罪をやるという手もありますが、それこそ、誰にでもできることじゃありません)、くらいしかないんだしさ。
 この中学生の場合は、とくに「本を出版する」ということが、社会との接点を回復するというきっかけになる可能性もありますので、結果的には、「ムダ遣い」ではないでしょうし、そういう「可能性」があるのなら、お金を払う人は払うはず。
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20061013
↑のように「本を出して誰かに読んでもらう」というのは書く側にとっての「癒し」になる場合もあるんですよね、たぶん。

 まあ、「WEBで発表する」っている手もありますし、こんなふうにいいかげんな自費出版本が濫立してしまうと、「本を出す」ということそのものへの幻想がなくなって、結局は「自費出版ビジネス」そのものが自滅してしまうのではないかという気もするのですけど。昔は「ワープロで打った」というだけでみんなものめずらしがっていたのに、今は「ワープロが当たり前」になってしまったように。というか、「本を出した人」への畏敬の念は、次第に低下していく一方です。

 ところで、これを書きながら思ったのですが、「面白い本」を探すためには、「装丁が凝っている、あるいはキチンとしている本」のなかから選ぶのが早道なのではないでしょうか。だって、そういう外面にまでちゃんと気配りがされているということは、出版社側も「そこにお金をかける価値がある」と判断しているわけですから。
 僕は書店で「ブログ発の書籍」を見るたびに、その「本」としての作りがあまりにもチープであることにがっかりしてしまうことが多いのです。『きらきら研修医』とか、せっかくドラマ化もされるんだから、もっと丁寧な作りにすればいいのに。僕が「ネット発書籍」で感心した装丁は、『電車男』くらいです。これは逆に、出版社側にとっての大部分の「ネット発書籍」というのは、「テキトウに作って、当たれば儲けもの」というくらいのレベルの「商品」でしかない、ということでもあるのでしょうね。

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