琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「友達」について

http://d.hatena.ne.jp/akane17/20070128
↑のエントリを読みながら、僕は自分の「友達づきあい」について、ずっと考えていました。先日後輩の結婚式で一生懸命芸をやってくれたり、昔の悪行を暴露してくれたりしている「友達」の姿をたくさん見て羨ましくなってしまったからかもしれません。
 僕は三十数年生きていますけど、「親友何人いる?」って問われたときに、「3人!」とか「5人!」とか答えられないんですよね。いや、「ひとり」もいないかもしれない、悲しいけれど。
 僕はそんなに人から恨みを買うような人生は送っていないと思うのですが(このブログの一部の荒らしの方々は除く)、もともとあまり他人と濃厚な「友達づきあい」をすることが苦手ではあったんですよね。それでも中学生の頃は、いつも一緒に遊んでいた友人は何人かいたのですが、僕が引越してしまったり、進学して環境が変わったりしているうちに、いつのまにか音信不通になってしまいました。そもそも、僕は本とゲームがあれば独りでいることにあまり痛みを感じない人間なので、歳をとるにつれて、ひとり(+彼女)という状況で過ごす頻度が高まっていったのですよね。今の職場の人たちとはたまに一緒に飲みに行ったりもするし、仲だって「平均以上に(10点満点中の6点くらい)良い」とは思うのですが、そういうのは「友達」でもなんでもないわけで。それでも、インドア派の30代男にとっては、「一緒に遊ぶ友達がいない」っていうのは、普段はそんなに困ることではないんですよね。むしろ、毎日のように飲みに誘ってくれる人がいるような職場のほうが、かえって煩わしさを感じていましたし。僕の場合、「人に悪く思われたくない」という気持ちが先に立ってしまうので、どうしても相手に合わせるようなことが多くなって、そうしているうちに人に合わせることに耐え切れなくなり、それでも嫌われたくないからその相手と接することそのものを少なくしていく、というような付き合い方を繰り返してきたように思います。「君子の交わりは水の如し」という有名な言葉があるのですが、それは処世術としては正しいような気がする一方で、「君子」の結婚式や葬式には誰か来てくれたのだろうか?困ったときに誰か手をさしのべてくれたのだろうか?とか考えてしまうのも事実なのです。本当の「君子」であれば、そもそも、困ることそのものがないのかもしれないけどさ。
 考えてみれば、僕は昔から他人に何かを頼むのが苦手で、人に頼むくらいなら自分でやる、というようにしていたのですけど、その一方で、なんでも完璧に自分でやれるほどの能力があるわけでもなく、最後は誰かに頼んでしまう(そして、今まで僕が「悪いから」と思っていたのがバカバカしいくらい、大概の場合相手は快く引き受けてくれました)、というのを繰り返しているのです。
 僕は「友達」という言葉を誰かに対して口にするような人があまり好きではなくて、「俺たち友達だろ」というのは「だから○○してくれるよな」の前置きだとしか思えないのですが、最近つくづく考えるのは、もっと若い頃に迷惑をかけたりかけられたりすることがあっても、お互いにコイツだったらしょうがないか、と納得できるような友達を作るための努力をしておけばよかったなあ、ということなんですよね。でも、大人になってしまうと、ゼロからの「迷惑をかけたりかけられたり」するような人間関係を構築していくというのは非常に怖いことです。学生時代の友達にかけられる「迷惑」が貧乏神レベルだとすれば、困った大人の「迷惑のかけ方」っていうのは、本当にキングボンビーレベルなので。下手したらボンビラス星に連れていかれてしまいます。そして、人との付き合い方のスタンスというのは、そんなに急に変えられるようなものじゃない。

 角田光代さんの『対岸の彼女』の本のオビに、

 おとなになったら、友達をつくるのはとたんにむずかしくなる。働いている女が、子どもを育てている女となかよくなったり、家事に追われている女が、未だ恋愛をしている女の悩みを聞いたりするのはむずかしい。高校生のころはかんたんだった。いっしょに学校を出て、甘いものを食べて、いつかわからない将来の話をしているだけで満たされた。けれど私は思うのだ。あのころのような、全身で信じられる女友達を必要なのは、大人になった今なのに、と。

 こんな文章が書かれていて、僕はとてもとてもせつなくなりました。本当に「友達を必要なのは、大人になった今なのに」。
 僕にはもう、「友達」を作ることはできないのかもしれません。

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