<第1章>「プロジェクトF」誕生
というわけで、当初の日記は内容もかなりリアルで、危険だった。
実際、誰も読まない日記であれば、あまり危機管理なんて考える必要もなかったし。
しかし、ある夏の日、僕は突然、「サイト作り」に目覚めたのだ。
お盆期間というのは、比較的田舎の病院ではヒマになり(外来も少なく、入院患者さんも外泊したがる人が多くなるため)、さらに運のいいことに、その年は重症患者さんがいなかったのだ。
というわけで、僕は20時くらいには家に帰り、なんだか悶々としていた。
家でネットサーフィンをやったり、ネット雑誌を読んでいると、たまに面白いサイトを見つけることができた。
「L****」という、20歳そこそこの女性のサイトなのだけど、彼女はなぜか「ご遺体」に興味を持って、葬儀屋でバイトをしていて、そこで出会った御遺体のことを日記形式で書いていたのだ。
その文章に対しては、文章読みとして「面白い」という感慨と医者として「不謹慎」という2つの感情を僕は持っていた。
そのサイトに対するリアクションも、僕が抱いた2つの感情に大別されたようだった。
そういったサイトを観ているうちに、僕の中の「表現力」とかいうやつが、たぶん抑え切れなくなったのだと思う。
医者の仕事というのは、基本的には、「通例に従って」やるものだ。
10回に1回の120点の仕事で、40点のときがあるよりは、常に80点の仕事が求められる。
僕もサイトをつくってみよう、この仕事としては、比較的時間があったこともあって、そう思った。
最初に決めたことは、「自己紹介をつくらない」ということ(自分を護るため)と絶対に現実世界の知り合いにはサイトのことを教えない、ということだった。
知り合いの顔が浮かんできては、僕には日記なんて書けるわけがない。
最初は、雑誌の付録についていた「ホームページビルダー」の体験版で作成した。日記とレトロゲームレビュー、旅行記、掲示板、メール送信フォームだけのサイトで、リンク集なども存在していなかった。リンクなんて、勝手に貼っていいものかどうかわかんなかったし。
こうして、「プロジェクトF」は産声をあげた。
2001年、8月12日。
ちなみに、サイト名の由来は、当時流行っていた「プロジェクトX」の影響だ。こんなどうでもいいようなネーミングをするくらい、僕にとってのこの時点でのサイトは、どうでもいい存在だったのだ。
しかし、今から考えると、雑誌の付録のホームページサンプルのテキストだけ変えたような、まさに「つまらない個人サイト」の典型例だった。
もともとデザインのセンスなんて無かったし、それはもう「ダサい!」の極致。
旅行記などは、「どこでも配置モード」で作ったため、職場に置いてあったMACで観たら、画面とテキストが重なって、何がなんだかわかりはしない。
おまけに、当時は画像圧縮の技術を知らなかったため、写真が表示されるまで、とんでもない時間がかかった。
それでも人間は、1枚の画像が表示されるのに、5分や10分は待てるものなのだ。
…ただし、自分のサイトの場合に限るけど。
いちばん悲惨だったときには、トップページに牧場で撮ったオグリキャップの画像を圧縮することなしに、画面いっぱいに貼り付けたこともある。
「綺麗になった」と自分では満足したが、さすがに自分でも遅すぎると判断してこれは没。
悲しいことに、そういうときに「それじゃ遅すぎ!」と指摘してくれる人すらいない零細サイトの宿命。
作成と同時に、いろんな検索エンジンに登録してみたり、無謀にもヤフーに登録依頼してみたりもした。
日記・旅行記4本、ゲームレビュー10本、限りなく格好悪いデザイン。
今から考えると、「落ちて当然」だ。
サイトを公開したら何かが変わるんじゃないかと自分では想像していたけれど、もちろん、何も変わらなかった。
アクセスは、日に10人もなく(というより、ほとんど自分だけだった)
掲示板を覗いても書き込みは皆無だし、メールも全く来なかった。
でも、そんな「当然のこと」が、不当な気がしていたのだ。バカだよなあ。
そういえば、変な勧誘メールはときどき舞い込むようになったけど。
どのくらい人の気配が無くて寂しかったかというと、
「面白いサイトですね。私はこのサイトで彼氏ができてドキドキです(顔文字とアドレス)」
というような、最初にサイトに書かれたいわゆる「業者の宣伝書き込み」に喜びのあまり「ご訪問ありがとうございました」なんてまともにレスをつけてしまうくらい。
そんななか、あの「NY同時多発テロ」が起こった。
直接は何の関連も無かったのだろうけれど、僕のやる気は、急速に失われた。なんだか、「それどころじゃない感」にしばらく支配されていたような気がする。
サイトは2ヶ月更新されずに放置され、たまに行くと、自分が行った回数だけカウンターが回った。
もはや、「プロジェクトF」は、風前の灯火だった。
僕自身ですら、このサイトはこのままネットのプランクトンになるものだと確信していたのだから。
どんなに宣伝してもほとんどリアクションもなく、掲示板は閑古鳥(今から考えたら、アダルトサイトの業者にすら「書き込む価値なし」と判断されていたのだと思う。悲惨だ…)の状態だった「プロジェクトF」の命運は、まさに風前の灯火だった。
たまに思い出したように更新したが、だからといって何かが起こるわけでもない。
8月中旬に開設したサイトのアクセス数は、12月の終わりに、やっと合計1000を超えた。しかも、カウンターはリロードも数えられるタイプだったから、おそらく、自分で回したのが半分以上だったと思う。
まさに、典型的な泡沫サイトだった。
このまま閉鎖しようか、と思っていたのだが、ちょうど、2001年の正月は、オンコールで外にも出られず、比較的時間ができる状況だった。そして、僕はなんとなく自分のサイトをいじってみようと思い立ったのだ。
まず、アクセスアップ関連のサイトを見て「READ ME!」のことを知った。
HPビルダー頼みの僕にとっては、アイコンを設置することすら至難だったが、なんとか設置することができた。
もっとも、初期のころは1日10アクセスあったら万々歳だったので、リドミで自分のサイトの順番を見つけるのも一苦労だったけど。
それは、今までに自分でカウンターを回していて「誰か来ているつもり」になていた僕にとっては、悲しく情けない現実だった。
それに、末端サイトにとっては、リドミはアクセス向上にはつながらない。
「新作リスト」に載っている間、ちょっと効果があるくらいだ。
あと、いろんなサイト紹介のメールマガジンに投稿してみたのだが、その効果もよくわからなかった。あまりにたくさんのメルマガがありすぎて、自分のサイトがいつどこに載ったか、本当に載ったかすらわからなかったし、効果を実感したことは無かったように思う。
結局、何万部と言っても、宣伝したい人だけが見るメールマガジンでの広告には、あまり意味がない、というのが結論だった。
それは、1月1日、元旦のことだった。
今のこのサイトでは、決定的にコンテンツが弱い、ということにようやく気がついた僕は、サイトで新しいコンテンツを立ち上げることにした。
それが、「活字中毒。」だった。
しかし、これはあくまでも正月に思いつきではじめたもので(だから、タイトルだって適当じゃないですか、実際)、「その日自分が読んだ本のことを記録する」という趣旨のものだった。僕は活字が大好きなので、内容に触れなくても、実際に読んだ本のタイトルとかページ数だけでも記録したら面白いんじゃないかな、と思ったのだ。
しかし、このコンテンツは、後にどんどん変容していくことになる。
当初の「内容には触れず、本のタイトルやページ数だけを列挙」というスタイルから、どんどん逸脱していくのだ。
よく「いいかげんに作ったコンテンツほど流行る」と言われる。
「プロジェクトF」は、まさにそんな感じだった。
「活字中毒。」は、後にサイトの看板になったし(というか、今でも看板であり続けている)、「Doctor's Ink」も最初は思いつきだった。
2002年の1月中旬には、サイトにとってのステップアップのきっかけが訪れた。
「さるさる日記」の読者の一部に配信される「さるさるマガジン」に「当直日誌」のある日の分が全文掲載されたのだ。
いまから読み返すと、当時の当直日誌は面白い。知り合いには読ませられないけど。
で、この「うしとみしよぞ」って、いかにも「メルマガに全文掲載するのにふさわしい」という豆知識&小ネタ系で、いまさらながら自己嫌悪です。
しかし、これが載ったことによって、「当直日誌」の読者数は激増した。
1日100人以上とか。
あまりに嬉しくて、自分で何回かリロードして「アクセス数ランキング」に載るようにしたくらいだ。
そして、待望の掲示板への知らない人からの書き込みもあった。
なんとなく、自分のサイトがネットに繋がった、そんな感じがした。
もちろん、「当直日誌」のアクセス数は、掲載後しばらくして減っていったが、それでも掲載前は一桁だたのが、常時20〜30アクセス/日くらいはいくようになったのだ。
「プロジェクトF」に流れてくる人も、少しずつ増えだした。
もちろん、リドミで1日10カウントいけば万々歳、という状況が続いてはいたのだけれど。
それでも、リアクションが出始めたことによって、僕の更新意欲は高まっていった。日記と「活字中毒。」を極力毎日更新するようになったのだ。
そして、「プロジェクトF」に2回目の飛躍の時が近づく。