琥珀色の戯言

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なぜ日本人は劣化したか ☆☆☆☆

なぜ日本人は劣化したか (講談社現代新書)

なぜ日本人は劣化したか (講談社現代新書)

活字の世界、子どもの教育、若者の「生きる力」、ゲーム・音楽などのコンテンツ産業、知的ビジネス産業、社会の寛容性、公共意識の低下など、日本中で地殻変動のように起きている「劣化」について考える。

Amazonでの評価などを読んでいると、「劣化したのは著者(香山リカ)の方だ!」なんていう厳しいコメントも多いのですが、僕はけっこう面白く読めました。まあ、この本の中での香山さんの「主観」に囚われずに、客観的なデータだけを拾っていっても、それなりに役立つのではないかと思いますし。

この中で、香山さんは、「個人的な体験談」として、こんな話を紹介されています。

 '07年のセンター入試監督をしているときに、興味深い体験をした。完全マニュアル化されたこの試験では、監督は原則として、配布されるマニュアルに書いてあること以外は、受験生に話してはならなことになっている。試験開始20分前になると監督は、「机の上に置いてよいものはHBの鉛筆、鉛筆削り……」とマニュアルに書いてある注意事項をそのまま読み上げる。
 ところが、私が監督を担当したクラスでは、そのマニュアルを読んだだけでは、受験生の多くはノートや参考書をしまおうとしなかったのだ。たしかに、「参考書をしまいなさい」という文言はマニュアルに記載されていない。とはいえ、「机の上に置いてよいものは……」という指示があれば、「ああ、それ以外のものはすべてカバンにしまわなければならないのだな」と類推できそうだが、受験生にはそれが困難なのだ。やむなく私たちは、該当する受験生に個別に「はい、このノート、しまってください」「もう参考書を見るのはやめて」と注意を与えなければならないかった。注意すると「すみません」とすぐにしまう人もいたが、中には「どうして?」といぶかしげな顔や不満げな顔をする人もいた。彼らにしてみれば、「ノートをしまいなさい」と言われていないのに、なぜそうしなければならないのか、と納得がいかないのだろう。
 休憩時間に、監督の教官たちで「これからは”出してよいもの”の指示だけではなく、”これとこれとこれ……はしまってください”という指示もマニュアルに記載してほしいけれど、それを読み上げているだけで試験時間が終わりそうだ」とジョークを言ったりもしたのだが、この程度の類推能力がないのがいまの若い人たちなのだとしたら、彼らに劣化の病識を持ってもらうのは、至難の業なのかもしれない。

 僕はこれって「劣化のサンプルケース」というよりは、「受験生の往生際の悪さ」(焦っていて、少しでも勉強したい!)から来ているのではないかと思うのですが、その一方で、最近の社会の「甘さ」みたいなのをこの事例は象徴しているのかもしれない、という気がしたのです。
 この学生たちは、たぶん、自分たちが「ルール違反」をしているのを知っています。
 でも、同時に彼らは、「このくらいなら、別にやっても受験資格が失われたりすることはないだろう」という「確信」も持っているわけです。試しに、誰かひとりの受験生を「即時失格」にしてしまえば、全国の受験生は、こんなルール違反をしなくなります。たぶん、「そのくらいで『失格』にするなんて!」というバッシングが起こるのはまちがいないでしょうけど。
 要するに、今の社会というのは「反則をしても5カウントとられなければ反則負けにはならないプロレス」みたいなものなのです。そしてみんなは、いかに「4カウントまで反則をやるか」を競っています。誰も「反則をすることそのものが悪い」なんて思っちゃいないし、大人たちも「反則負けにならなきゃいいんだよ」って子供に教えているのです。
 僕は「劣化」したというよりは、みんな「社会の暗黙のルールを知り尽くしたつもりになってしまっているのではないかな、と感じています。

 先日『わしズム』のVol.23で、小林よしのりさんが、こんなことを書いていました。

 最後に一言指摘しておく。玉砕も散華も悠久の大義も死に対する意味づけである。無意味な死という物語の解体に我々は耐えられない。死を意味づける物語が消滅した世界では、特急列車の中で女性がレイプされていても誰も助けようとしない虚無主義だけが蔓延する。

 極論すれば、「劣化」の元凶というのは、「何よりも命、とくに自分の命が大切だ」という「平和教育」なのかもしれないな、と僕は思うのです(香山さんは「新自由主義」の責任を語っておられますが、じゃあ、社会主義国が「劣化」していないのか?と疑問になるのです)。「生命絶対主義」では、電車の中で刃物を持った男に見ず知らずの女性がレイプされていたとしても「自分の生命を守る」ことを考えれば、見て見ぬふりをするのが「正しい」のですから。
 こういうときに男に注意し、闘うというのは、生命維持の観点から言えば、何のメリットもありません。
 そういうシチュエーションで、「自分が傷つけられても困っている人を助ける」というのは、「そういう自己犠牲に自分の生命以上の価値がある」という発想がなければ、ありえない行為なんですよね。

 もちろん、こういうのって、極端になりすぎてしまって、個人崇拝や軍国主義の温床になりやすくはあるのですが、「世の中で、本当に自分の生命というのは一番大事なものなのか?」という疑問を持ってみるのって、すごく大事なことなのではないかな、と僕は最近考えているのです。
 もちろん、そんなことを考えたところで、そう簡単に悟れるようなものではないんですけどね。
 本の感想のはずなのに、脱線しちゃってすみません。

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