琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

時津風部屋の惨劇と格闘技における「怨念」

 相撲のけいこは“愛のムチ”(サンケイスポーツ)
(すぐに消えてしまいそうなので、一応「保存」しておきます)

「けいこだけは肉親には見せられない」という大相撲の親方が、昔は多かった。竹刀やホウキの柄で滅茶苦茶にたたかれ、体中ミミズ腫れになったわが子の姿を見せられたら親は取り乱す。しかし、親方や古参の兄弟子が「そこまで」という“愛のムチ”の限界を心得ていて、息絶え絶えだった若い力士もすぐに元気を取り戻した。

部屋によってはいまも残るそんな厳しいけいこでファンを喜ばせる強い力士が育ち、悪童が礼儀正しい若者に変身し親が感謝する。それが相撲界の特質でもある。3カ月前、17歳の序ノ口力士がけいこ中急死した問題で傷害容疑が浮上した元小結双津竜時津風親方(57)も、そのへんはよくわきまえていたはずだ。

30分にもわたるぶつかりげいこの後に、兄弟子から暴行を加えられ急死した力士は、入門後もタバコを辞めず再三脱走を繰り返したという。親方としては相撲を通じてなんとか素行を改めさせたかったのだろう。しかし、チャンコの席でビール瓶で殴ったのは常軌を逸していた。普段は温厚な親方が何を血迷ったのか、と首をひねるばかりだ。

ある部屋では「うちの子が兄弟子が怖い、といっている。ホテルから通わせてもらいたい」と新弟子の親からネジ込まれる時代である。7月の名古屋場所前に起きたこの問題の影響で、親から入門を断られた部屋もあり、ますます新弟子は取りにくくなる。全体的に甘くなったけいこが、力士減ではさらに甘くなるだろう。

厳しいけいこがあってこそ、いい方向に向けての“愛のムチ”も生きてくる。けいこのあり方や、新弟子の集め方が根底から問われる相撲界の一大事として、協会も心して対処すべき問題だ。

サンケイスポーツ・今村忠)

リンチ親方「可愛がってやれ」(世界一小さな新聞 by 日刊スポーツ)

 上の記事のほうは、「暴論」で、「『釣り』じゃないのこれ?」と思ってしまうくらいです(この今村さんという人は、かなりズレたコラムを書き続けている人らしいのですが)。
 一方、下の日刊スポーツの記事のほうは、まさに「正論」という感じです。コメント欄でのやりとりも興味深いです。

 「スポーツマン」とは極北の人生を送ってきた僕がこの時津風部屋での暴行事件と、その後の社会の反応を追ってきて最も感じているのは、「ハードなトレーニング」と「精神修養と称したイジメ、暴行」は全然違うはずなのに、スポーツの世界では、その境界というのはかなり曖昧なものなのだな、ということでした。

 昨日のエントリでも書きましたが、率直に言うと、僕は「炎天下に高校球児が練習中に熱中症で死亡」というのは、「望ましくないこと」ではあるものの、「『限界』を追求する場合には、そういうケースも起こりうるのだろうな」と思うのです。逆に「暑いから練習やめよーぜ」なんていうレベルでは、そんなに上に行けるわけがないだろうし、実際のところ「どこまでが限界か?」なんていうのは、やってみないとわからないんでしょうし。ギリギリのところまでいかなければ、「頂点」は見えてこないはず。
 何年か前、『Number』でスピードスケートの清水選手のトレーニングに関するレポートを読んだことがあるのですが、その練習は、スポーツ記者ですら「こんなことを続けていたら、清水選手は死んでしまうんじゃないか」と思ったくらいの過酷なものだったそうです。オリンピックなんて、「天才」集団のなかで勝たなければならないのだから、そのくらいじゃないと金メダルなんて獲れないのでしょう。

 でも、そういう「ハードなトレーニング」と「イジメ」「シゴキ」とは違うはずです。
 今回の事件に関する報道で、僕が笑止千万だと思うのは、「昔の先輩たちは、体罰の『加減』を熟知していて、相手が死ぬまではやらなかった」とかいう人たちなんですよね。こういうのって、「程度の問題」じゃないし「相手が死ななきゃ愛のムチ」って、それどんなプレイなんだよ!(って言うと、本物のSMの人に失礼ですね)って感じです。竹刀で殴ったからって、相撲が強くなるわけありません。
 たぶん、「今までも同様のことはたくさんあって、今回はついに『限界』をこえてしまっただけ」なのではないかと。

 しかし、僕の心の中には、こんな感情も湧いてくるのです。

「でも、科学的なトレーニングだけで鍛え上げられた、クリーンな格闘家」と「科学的なトレーニング+先輩のイジメやシゴキなどに曝されてきた格闘家」がリングの上で闘ったら、どちらが勝つのだろうか?


 そんなの、前者が勝つに決まってるじゃないか!

 ……って言い切れればいいんだけれど、僕は正直、「勝つのは後者なのでは……」と考えてしまうのですよ。
 イジメやシゴキ、体罰が人の心を強くするとは思いたくないけれど、極限状態に追い込まれたときには、そういう「刷り込まれた怨念」みたいなものの差が、勝負を決してしまうのではないか、と。
 実際のところは、僕のような運動オンチにはわからないので、ぜひハイレベルでのスポーツ経験者の意見を聞いてみたいところではあるのですが、僕がやっていた弓道の世界でも、「矢を的に当てる技術」っていうのは「性格の良し悪し」とは全然別だったんですよね。「精神力」っていうのは、必ずしも「優しさ」とか「人のよさ」とイコールではありませんでした。とくに格闘技の世界などでは、「倒れている相手に完膚なきまでトドメを刺す『容赦なさ』」が必要なはずです。
 そうであるとすれば、

貴乃花親方の親子・兄弟の軋轢が
ワイドショーの話題を独り占めにしていた時だったか、
テレビ画面で、貴乃花親方が剣道の竹刀を手に、
若い弟子たちに気合を入れているシーンが映し出されていた。

親方は、弟子の一人の頭を竹刀で殴った。

 なんてシーンは、「理不尽」で「残酷」なだけに、「強い力士」を生み出すための「必要悪」なのかも……

 僕を含めて、喜んで「K−1」とか「PRIDE」とかを観ている人というのは、ある種の「残酷さ」を期待しているはずです。そして、そういう「容赦のない」選手でないと、頂点には立てないということも。
 僕だって、そんなこと認めたくはないのだけどさ。
 もしかしたら、そういう「残酷さ」を完全に消し去るためは、「相撲」をはじめとする格闘技そのものを消し去るしかないのかもしれません(ちなみに僕は「相撲」は絶滅すべき文化だと考えています)。格闘技ファンの多くは、そういう「闘う者たちの怨念」を含めて愉しんでいるのだと思うもの。

 まあ、これは「格闘技」とか「スポーツ」の話だけではなくて、「人間社会の縮図」という気もしますが……

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