琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ネットに永久に残るもの


ネットに永久に残るものってあまりないんじゃないか(はてな匿名ダイアリー)

CD-ROMを整理していたら、8年ほど前に買ったデザインフォント集のROMが出てきた。
このフォント使えるかなーと思って、権利関係について調べてみようとROMの中身を見てみると
READMEファイルには「使用条件はそれぞれのフォントに付属する説明書に記載している」とあった。
けれど、その説明がROMの中に見つからない。

フォント集の販売元の会社のサイトは既になかった。
WebArchiveにも詳しい情報のページは残っていない。
フォント集に参加している十数人のデザイナー名前で検索しても、ことごとく引っかからない。
サイトを持っている人もいそうなものなのだが…。
たった8年前の事なのに、既にネット上には情報がない。

ネット上の情報は積極的に残そうとする人がいないと消えてしまう、という事なんだろうなあ。

僕もネットに文章を書きはじめたときに「自分の書いたものが世界中の人の見てもらえる(これは日本語で書いているかぎり、現実的にはかなり難しいのですけどね)、とか「自分が死んでも半永久的に残る」なんて考えていました。でも、紙の日記とかじゃない、デジタルのデータだからといって、「ずっと残る」ってわけじゃないんですよね。

以前紹介した、『シーマン語録2』という本に、こんな言葉が載っていました。

デジタルデータが劣化しないってのは迷信だ。
ただそれがある日突然来るだけの違いでね。

まさにその通りで、極端な話、いま僕が突然死して、しばらくして銀行の口座からお金が無くなるか、「はてな」にトラブルが起こってデータが全部消えてしまう、というようなことが起これば、容赦なく、この文章は消えてしまうわけです。
しかしながら、そういう「物理的に失われること」だけが「消える理由」ではありません。
先日、実家で久々に昔使っていたパソコンを立ち上げて、「お気に入り」に登録していたサイトを上から順番にクリックしてみたのですが、悲しいことに、まだ「生きていた」サイトは、そのうちの1〜2割くらいでした。そのパソコンを最後に立ち上げてから、まだ3年も経っていないのに。大手のポータルサイトはそう簡単には消えないのかもしれませんが、個人サイトというのは、あっけないくらいどんどん消えていきます。僕たちが、そのサイトが「消えてしまったこと」にすら気づかないうちに。寺山修司的に言えば、「悲しいのは、死んでしまった女よりも、忘れられてしまった女」。
あるいは、ネットに「物理的に」ずっと残ることは可能かもしれませんが、それは要するに「墓石は残っているけれども、誰にも思い出されることがない」というのと同じ状況です。ああ、でも、だからこそ人はお墓をつくりたがるのか?

僕がこうしてしぶとく更新を続けているのは、10年近くネットの世界に触れていて、「更新が止まったサイトは死んでいく」ことを実感しているからなのかもしれません。更新を続けていても、「ゆるやかに死んでいっているなあ」と思うこともあるのですけど。

それでも、どこかで知らない誰かが自分のことを「保存」していてくれるのではないか、という淡い期待みたいなものって、無いよりはあったほうがマシなのでしょうし、ネットに永久に残るものの正体って、そういう希望の残骸みたいなものかもしれませんね。

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