琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ラストキング・オブ・スコットランド ☆☆☆☆


<ストーリー>
スコットランドの医学校を卒業したニコラス・ギャリガンは、高い志を胸にウガンダのムガンボ村にある診療所へとやって来た。それはちょうど、軍事クーデターによってイディ・アミンが新大統領となった直後のことだった。ニコラスはアミンの演説を聞いて、そのカリスマ性に強く惹きつけられる。そして偶然にも、ケガをしたアミンを救ったことからアミンに気に入られ、彼の主治医に抜擢される。やがてアミンは主治医という以上の信頼をニコラスに寄せ、ニコラスもまたその期待に応えようとするのだが……。

1970年代にウガンダで独裁政治を行ったイディ・アミン大統領を描いた映画。この映画では、就任当初は国民からの人気も高く、寛容でユーモアあふれる「大きな男」だったアミン大統領が、次第に猜疑心を膨らませ、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と呼ばれ、怖れられるようになるまでが描かれています(当時、大統領(の政策の影響)により、ウガンダでは30〜40万人が虐殺されたと言われています)。
観ていて、アミン大統領を演じたフォレスト・ウィテカーの存在感に圧倒されてしまう映画なのですが、僕はこれを観ながら、「なぜアミン大統領は、『歴史に残る残虐行為の首謀者』になってしまったのか?」ということをずっと考えていました。
この映画の前半を観ていると、アミン大統領はけっして「ナチュラル・ボーン・キラー」ではなくて、機知に富み、理想を持った陽気な人物であるように思われるのですが……
「権力は魔物だ」とよく言われるのですが、アミン大統領というのは、もともとは頭が良く、非常に小心で慎重な人物だったような気がします。でも、そういう人間だからこそ、権力の座にたどり着いてしまうと、鷹揚に構えてはいられなくなるものなのかもしれませんね。歴史に名を残す「成り上がって天下を取った人」の多くが、同じように「天下を取ったとたんに猜疑心の塊になってしまっている」ように。漢の高祖や豊臣秀吉などは、まさにその典型例なわけで。
ちょっと話がそれてしまうのですが、王権や帝位が世襲制になるというのは、ある意味、人類の知恵なのではないか、というようにも思えるのです。「成り上がった人」というのは、どうしても他者に対して「次の自分はこいつではないのか?」という気持ちになるのでしょうが、「生まれつきの皇位継承者」であれば、創業者よりは、そういう猜疑心は乏しくなるはずです。「帝王学」というのは、もしかしたら、「権力を持っている人が、他人に対して寛容になるためのトレーニング」なのかもしれません。

この映画、「権力というものの怖ろしさ」「アフリカという土地を外部から理解することの難しさ」がよく描かれてはいるのですが、あまりに「勧善懲悪」の世界からは程遠いために、観ていてすごくフラストレーションがたまるのも事実。「権力は魔物だ」ということがわかったからといって、我々はどうすればいいのか? どうしようもないんじゃないか?と自問自答してみたりもするわけです。「権力を握ったら気をつけよう」とか考えている人は、所詮、権力の極北で生きていくしかないわけで。
Yahoo!映画』でのユーザー評として、「なぜこの青年医師はアミンを止めなかったのか?」という疑問を書かれている方がけっこういるのですが、僕はニコラスがどうやってもアミンを止められたとは思えないんですよ。止めようとすれば、すぐに殺されていただけなのではないかと。「さっさと逃げてりゃよかったのに……」とは感じましたが……
とても良い映画だとは思うのですが、「どうしようもないものを、どうしようもなく見せつけられる」というのは、いたたまれないものでもありますね。

ところで、Wikipediaには、こんな話が紹介されていました。

さだまさしは彼の名前の響きが面白いと思い『パンプキン・パイとシナモン・ティー』(1979年 アルバム『夢供養』収録)に出てくる喫茶店の名前を「安眠(あみん)」と名づけた。さらに、さだまさしファンだった岡村孝子は、この名前を取って自らのユニット名にした、それが「あみん」である。

僕たちが小学生の頃「愛知県民の略?」とか勝手な想像をしていた「あみん」のルーツが、この「人喰い大統領」だったとは……
さだまさしさんも岡村孝子さんも全然悪気はなかったと思うのですが、事実だとすれば、これもなんだかいたたまれないエピソードではありますね。

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