琥珀色の戯言

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笑いの現場―ひょうきん族前夜からM-1まで ☆☆☆☆


(e-honより)
[要旨]
ラサール石井が「コント赤信号」として歩んだ時代―それは現在のお笑い界の第一線にいる芸人たちとの競演の時代でもあった。修業時代に新宿ゴールデン街で飲み仲間だったとんねるずや、「オレたちひょうきん族」の楽屋で談議したビートたけし明石家さんま島田紳助ら。そこで熱く語られたのは、芸人として極めんとするそれぞれの笑いのスタイルについてだった。コント赤信号で歩いた時代を描く「ノンフィクション編」と、芸人それぞれの笑いを解説する「評論編」の2部構成で、お笑いの真髄を描く。

[目次]
第1章 コント赤信号で見たお笑い界―ノンフィクション編(ネタの時代―第一次寄席ブームと第二次寄席ブーム;再びネタの時代―漫才ブームコント赤信号;「ひょうきん族」がつくった時代―漫才ブームの終焉;空気の時代―お笑い第三世代の登場;リアクションの時代―「電波少年」から「ボキャ天」そして「めちゃイケ!」;またもネタの時代―「M−1グランプリ」を採点する);第2章 お笑い芸人列伝―評論編(ビートたけし―一〇人の中の一人であり続けるために;明石家さんま―爆笑のためにけっして引くことなし;志村けん―ピエロの原点;とんねるず―中高生のカリスマとなって;ダウンタウン―フリートークという漫才)

 この本のオビには、

 「お笑いってこういうもの」ラサール石井がお笑い界を内側から描く

 と書かれています。
 この本を読んでみると、「漫才ブーム」のはじまりから、『M−1グランプリ』までの「お笑い界」を、その内側の「第一線が見える位置」から俯瞰し、自分の言葉で書ける人は、ラサールさんしかいなかったんじゃないかな、という気がします。
 最近で言えば松本人志さんや島田紳助さんをはじめ、多くの売れた(あるいは、売れている)芸人たちが、「自分のお笑い界での軌跡やポリシー」を文章にしているのですけど、やはり、彼らは「大成功」をおさめているだけに、あくまでも「自分の話」「自分の視点」に終始してしまう傾向があります。もちろんそれはそれで「面白い」のですが、この本でのラサールさんほどの「冷静な分析」は、彼らにはたぶんできないのではないでしょうか。
 もしかしたら、ラサールさんがお笑い界でこれだけ息の長い活躍をされているのも、そしてその一方で「大爆発」することがこれまでできなかったのも、内側にいるにもかかわらず、「ちょっと引いた位置から見てしまう」ところにあるのかもしれません。この本の中でも、ラサールさん自身は、さまざまな「時代を変えた芸人たち」を分析しながらも、ラサールさん自身が「どうやって観客を笑わせているのか?」については、ほとんど書かれていません。それは「企業秘密」だからなのか、それとも「奥ゆかしさ」ゆえなのか?
 
 この本のいちばんの読みどころは、なんと言っても、ラサールさんが実際にその目で見た、お笑い界の「カリスマ」たちのエピソードの数々なんですよね。

 一度楽屋で話をしていた時に、たけしさんが言ったことがある。「何かの番組で自分も含めて10人のゲストが出演していたとして、他の9人が9人ともみな認めるような事実があったとする。自分もそれを認めていながら、ちょっとボケたことを言って笑いをとることは誰でもできる。しかしその時に自分だけがまったく反対のことを言って、なおかつウケるかどうか。ここに勝負があるんだ。もちろんうまくいくとは限らない。一瞬にして座がしらけてしまうかもしれない。変わり者呼ばわりされるかもしれない。そしてもうその番組には呼んでもらえないかもしれない。しかし、それがウケればこっちのもんだ。後が楽なんだ。それで認められたら勝ちなんだ」。
 これは芸人にとって一つの大きな賭けである。ほかの仲間から頭一つ抜けるか、あいつは駄目だと烙印を押されるか、二つに一つだ。
 もちろんたけしさんとて最初からこの賭けに連戦連勝してきたわけではない。変わり者扱いされ、ディレクターから虫けら扱いされ、お笑い界でも異端児といわれながら、時代がビートたけしを認めるまでずっと戦い続けてきたのである。
 たけしさんのこれまでの生き様は、まさにこの10人のうちの1人になり続ける歴史であった。そのためにたけしさんはそれまでのあらゆる予定調和なものを破壊してきたのだ。

 さんまさんは楽屋の空気を大事にしている。できるだけ楽屋と本番の境界線をなくそうとしている。よく芸人は舞台を降りたら気難しいという噂がある。確かにそういう人もいる。しかしそうでない人でも本番と楽屋とでは多少のテンションの差があるのが普通だ。ところがさんまさんにはそれがない。とにかく自分以外の他人がいるところでは、ほとんどずっと同じハイテンションでいるのである。
 だから楽屋のトークがそのまま本番に反映する時もある。視聴者の中には、「さんまはいつも人の噂話しかしないじゃないか。他人のネタで稼ぐな」という人がいるが、では見も知らないマネージャーの話などで、あれほど観客をウケさせられる人がいるだろうか。その脚色力や表現力こそ、さんまさんの持つ芸でなくて何であろう。
 彼が楽屋でも本番でも常に変わらない、常に明石家さんまのイメージそのものである事実を示すいい例がある。
 彼は他人がいるところでは寝顔を見せない。忙しい芸人はただでさえ睡眠不足である。楽屋で一瞬仮眠するということはよくある。しかしさんまさんはけっしてそれをしない。いつも何人かのスタッフに囲まれ、必ず笑いの中心にいる。
 移動中のロケバスの中でもそうだ。たとえ全員が寝てしまっても、鼻歌を唄いながら無理やり起きている。一度打ち上げを兼ねて泊りがけでゴルフに行った時も、次の日が早いにもかかわらず寝ようとしない。「さあそろそろ寝るかあ」と立ち上がりかけて「うっそでしたあ」とすかしてまたそれで笑いをとる。
 なぜ寝ないのかと聞くと、「俺が寝てるとこって、キャラクターにないやろ」という答えだった。つまり彼はいついかなる時でも、四六時中明石家さんまであり続けているのだ。

 この明石家さんまさんの話を読んで、僕は戦慄してしまいました。
 「お笑い」のトップランナーたちは、なんて壮絶な人生を送っているのだろう……と。

 「お笑い」あるいは、「お笑いの世界で生きている芸人たち」に興味がある人には、ぜひ一読をオススメしたい本です。
 しかし、この本を読んでいて思ったのですが、そろそろ「ダウンタウンの次の世代の核となるお笑い芸人」が出てきてもおかしくない時期のはずですよね。でも、なかなかその姿は見えてきません。もしかしたら、ダウンタウンが「究極の進化形」なのでしょうか……

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