我々は福島大野病院事件で逮捕された産婦人科医の無罪を信じ支援します。
この事件に対する僕のスタンスというか考えは、ちょうど1年前に書いた
我々は福島事件で逮捕された産婦人科医の無実を信じ支援します。
最後になりましたが、医者であるかどうか以前に、ひとりの人間がこんな冤罪で人生をマイナスから始めなければならなのは、本当に悲しいし、腹立たしいことです。たいしたことはできませんが、僕も自分の痛みを覚悟しつつ支援させていただきます。
↑の文章と変わらないのですが、これを1年経った今日読み返してみると、なんのかんの言っても、僕は本当にこの医療情勢と闘っているわけではなく、ひたすら「自分が次の生贄にならないことを祈っている」だけなのだなあ、と、情けない気持ちになるのです。
しかし、こうしてブログやサイトで書いていて痛切に感じるのは、「本当に知ってもらいたい人、考えてもらいたい人」には、僕たちの声はほとんど届いていないのではないか?ということなんですよね。
『SPA!』の連載コラムで、鴻上尚史さんが、「ワーキングプア」について書かれた朝日新聞の記事に対して、
と書かれていたというのを以前ここで紹介しましたが、実際のところ、医療者たちの呼びかけに耳を傾けてくれる人たち、「話せばわかってくれる人たち」は、もともと「コンビニ受診」とかしないような人たちなんですよね、たぶん。そして、本当に話を聞いてもらいた人たちである「遺族感情の名のもとに誰も悪くない『病気』による死を、誰かのせいにしようとしている人」や「医者はみんな金持ちで休日はゴルフばっかりしていると思っている人」は、医者たちの悲鳴を聴こうなんて気はさらさらないのでは、と。
このまま「とりあえず医者や病院には文句言っとけ」みたいな風潮が続いたとして、誰が得をするのでしょうか?
あのとき、このままでは患者さんは助からない、と考えて手術に踏み切ったときの先生の気持ち、手を尽くしても出血が止まらず、患者さんの生命が失われてしまったときの無念、そして、「やるべきときにやるべきことをやった」にもかかわらず、世間から心無い誹謗中傷を浴びせられているという現状。
僕は最近、夜寝る前にすごく不安になります。
明日はこうして家で普通に眠れるだろうか?と。
こうしてパソコンに向かっている1時間後には、病院で血まみれになってカメラを握っている可能性も十分あるのです。
致命的な医療ミスをしたり、医療事故を起こしたりして、明日の夜に僕は見ている世界は、全く色が変わっているかもしれません。
そういう綱渡りをしていくことで、どんどん自分が疲弊していくのを感じます。
僕たちは、「医者がやることはなんでも正しい」などと思っているわけではないんです。むしろ、「医者だって完璧な人間じゃない」って叫びたい。
いま、日本中の病院で当直をしているのは、あなたと同じ小学校や中学校に通っていて、同じクラスで一緒に遊んでいた連中です。
そんなに「特別」でもないし、聖人君子じゃないけれど、少なくとも「助けることができる命を助けようとする」くらいには「普通の人間」だということを、なんでわかってくれないんだろうか。