- 作者: 本田透
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
- 発売日: 2008/02/16
- メディア: 新書
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出版社からのコメント
『Deep Love』から『恋空』まで大ヒット作を次々に生み出し、注目を集めるケータイ小説。
その特徴からマーケットの動向、映画やマンガへのメディアミックスの事例までもを分析し、そして、日本の文学史の中にケータイ小説を位置づける!?
『電波男』や『喪男の哲学史』などの評論からライトノベルまで手がける本田透がケータイ小説の謎に挑戦する!
「ケータイ小説」というものを一冊もまともに読んだこともないまま、「あんなの小説じゃねえ!」と罵倒していた僕にとっては、なかなか面白い「ケータイ小説入門」でした。僕にとっては、『Deep Love』も『恋空』も「みんなおんなじ『ケータイ小説』じゃねえか……」という感じだったのですが、この本によると、
2005年、「魔法のiらんど」で当時素人作家だったChacoが書いていたケータイ小説『天使がくれたもの』をスターツ出版から出版しようという話が持ち上がり、10月に出版された。
ケータイ小説の第二次ブームは、この『天使がくれたもの』(略称『天くれ』)によって火が付いた。YoshiとChacoの最大の違いは、Yoshiは少女読者たちの体験談を再編集する媒介者的な存在だったのに対して、Chacoは自分自身の体験をそのまま小説として表現したという点だった。
つまり、Yoshiは読者と作者の間にあった出版社というフィルターを取り去ったのだが、Chacoは読者と作者の垣根じたいを越境したのだ。『天くれ』によって、読者と作者がまったく同じ立場、同じ視点、等しい存在となった。
僕にとって「ケータイ小説」というのは、「横書き、字が少ない、頭が悪そうな女の子の反社会的な行為の列挙」でしかなく、「どれもみんな一緒」だとした思っていなかったのですが、「ケータイ小説業界」では、『Deep Love』と『恋空』の間には大きな「違い」があるみたいなのです。
そんなこと、考えてもみなかった……
若者たちは物語を解体するばかりで新しい物語を構築すしようとしないリベラル派知識人の言葉を信じなくなり、代わりに保守主義……古びたはずの過去の物語が台頭した。
『Deep Love』の登場は、「終わりなき日常」=物語なきニヒリズムの生を生きてきたはずの少女たちもまた、保守的な価値観に回帰することを欲した結果なのだと筆者は考える。
ケータイ小説では「7つの大罪」が描かれる。
売春(援助交際)、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛。
それらは全て、現代……極限まで進化した資本主義社会において現実に繰り返されているイベントの反復であり、少女たちのパーソナル・エリア内で思い浮かぶ限り全てのイベントであり、それが限られた種類しかないということは彼女たちの人生には「これくらいしかイベントがない」ということでもある。
そして、これらのイベント自体には何の意味もない。
「大きな物語」はすでに崩壊しているから、我々はパーソナルな物語、「私の物語」を編纂しながら自分の無意味な生に意味を付与して生きなければならない。
要するに、「こんな将来に『夢』を抱けない社会では、ケータイ小説のような『自分の身近なところにありうる物語』によって、自分のつまらない人生の意味を肯定するしかないじゃないか」という話だと思うのですが、僕が思うに、「普通の人に起こりうる、良くも悪くもドラマチックな出来事」って、この「7つの大罪」くらいしかなさそうなんですよね。それは、別に「現代」に限ったことじゃなくて。
まあ、「ケータイ小説」に救いを求めざるをえない、今の若者たちはかわいそうだね……というような結論が僕の中では完成されつつあったのですが、この本のAmazonのレビューに、こんなものがあって、僕はすっかり打ちのめされてしまいました。
19 人中、11人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
いつもの人たち, 2008/2/19
By こるくた - レビューをすべて見る
私自身、この本で話題になっている層に該当するようですが
『少女達は資本主義の消費的な価値観に絶望し愛を求めた』とか
『ケータイ小説読者は小説と現実の区別がついていない』だとか
少女達はこう考えてるんですよ、という風に
決め付けて語ってますが、かなりピントがズレてるような。携帯電話ならいつも持ってますし、単純なプロットの
ケータイ小説は暇つぶしに丁度いいんです。
サイトに自作をアップするのも、いつものメールの延長で、
手軽に、紋切り型の物語を書いて遊んでる子がほとんどです。私の学校の友人も、利用してるネットのコミュニティでも
美嘉やYoshiの小説を真に受けている子はほとんどいません。
いるとしても、小さな子供やごく一部の子たちだけで
本を買う大多数の子は、漫画感覚で短時間で読める、ありきたりで
コテコテのパターンを、あえて楽しんでいるだけです。当事者達に会って調査したりすれば、わかりそうなことなのに
メディアの一方的な情報と憶測だけで『若者文化』を語って
『偏ったイメージ』をひろげる、こういう無神経な人の
行いを見ると、正直悲しくなります。この人も、『女の流行』に便乗して
それに『おじさん好みの都合のいい決め付け』をして
事情に疎い人達からお金を巻き上げる、いつもの人
なんだろうなぁと思ました。
本の中では、やたらと自分のことをアピールしてるし。ネット上で発言力のない層(何を書いても叩かれにくい層)
を狙って、都合のいい、見下した決め付けをするだけなら
お願いですから、放っておいてくださいと
どうしても言いたいです。『なぜケータイ小説は売れるのか』に、でなく
「君達は単純な馬鹿だけど恋愛によって救われようと
してるんだよねぇ」と優越感をもって口出ししてくる
知ったかぶった、偏見まみれのイタい人の生態に、
興味がある人は楽しめるかもしれません。
僕としては、「暇つぶしにケータイ小説読むくらいなら文庫本持ち歩けよ!」とか言いたくなってしまうのですが、「ケータイ小説について語られていること(あるいは、語っている人たち)について、『ケータイ小説の読者』たちはどう思っているのか?」が、これほどリアルに語られた文章ははじめて読んだような気がします(全文引用すみません)。
そうですよね、僕が中高生だったころを思い出してみても、「面白がって読むこと」と「その内容を真に受けること」というのは全然別物でした。もちろん、「リアルじゃないと面白くない作品」があり、「リアルじゃないところが面白い作品」もあり。そう、僕たちだって、『スラムダンク』と『ドラゴンボール』を並行して読んでいたのですから。
そして、大人だって、『失楽園』を真に受けて読んでいる人なんてほとんどいないはずです。『恋空』の映画があれだけヒットしたのも、大人たちが「文芸」の錦の御旗をかかげて黒木瞳のヌードを観に行ったのと同じように、彼らも新垣結衣が観たかっただけ、のような気もします。
ただ、「お金を払って本を買う」のには、やはり、それなりの「好意」なり「愛着」があるのではないでしょうか。
隙間だらけにもかかわらず上下巻になっているものも多くて、けっしてコストパフォーマンスが高いとは思えない「ケータイ小説」の「本」があんなに売れるのは、「暇つぶし」だけじゃない面もありそうですよね。