- 作者: 平野啓一郎
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2006/08/17
- メディア: 新書
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出版社/著者からの内容紹介
本を速く読みたい!それは忙しい現代人の切実な願いである。しかし、速読は本当に効果があるのか? 10冊の本を闇雲に読むよりも、1冊を丹念に読んだほうが、人生にとってはるかに有益ではないのか?
著者は、情報が氾濫する時代だからこそ、「スロー・リーディング」を提唱する。作家はどのように本を読んでいるのか? 本をどのように読んでほしいのか? 夏目漱石『こころ』や三島由紀夫『金閣寺』から自作の『葬送』まで、古今の名作を題材に、本の活きた知識を体得する実践的な手法の数々を紹介。読者は、教科書で読んだはずの文章であるにもかかわらず、「目から鱗が落ちる」を何度も体験するだろう。スロー・リーディングは、速読と違って特別な訓練はまったく不要。読書は工夫次第で、何倍にも楽しくなる。仕事、受験勉強、就職の面接にも効果があるし、人間関係を良好にすることができる。なにより卓越した創造性を発揮する読み方である。
「読書はエンターテインメントである」と確信している人にとっては、「そんなめんどくさいことしなくても……」としか感じられない本かもしれません。しかしながら、「自分で何かを書いてみようと思っている人」や「本を読むことによって自分を変えたいと考えている人」にとっては、かなり参考になるテキストではないかと。前半はちょっと教条的というか、「速読叩き」みたいな内容が多くて、「それでも速く読めたほうが良いんじゃない?」と反駁したりもしたのですけど(僕は基本的に「速読派」ではないですが)、後半の『こころ』や『金閣寺』の読みかたの実例などは、「ああ、作家というのは、こんなふうに本を読むのか」と、とても興味深いものでした。
文章のうまい人とヘタな人との違いは、ボキャブラリーの多さというより、助詞、助動詞の使い方にかかっている。やたらとたくさんの単語が使われていても、ちっとも胸に響かない文章もあれば、「ボキャ貧」であっても、妙に説得力のある文章もある。動詞や名詞を生かすも殺すも、助詞・助動詞次第である。助詞や助動詞が不正確な文章は、留め金がゆるんだ建物のようなもので、いくら建材(ボキャブラリー)が贅沢でも、見た目にも、また安定性という観点からも、大いに難アリである、前段でも指摘したが、速読の一番の問題点は、名詞や動詞を拾うことに注意を奪われて、この助詞、助動詞を疎かにしてしまうことだ。しかし、先に挙げた「AはBである」という単純な例文でも、意味の上で重要なのは、「は」であり、「である」なのである。
誰でも知っている通り、「私はリンゴが好きである」という文章と、「私はリンゴが好きではある」という文章では、ニュアンスに差がある。前者ははっきりとした断定であり、後者はそれよりも、若干の留保が感じられる言い回しだ。たとえ、明示されていなくても、「好きではある。(が、……)」と、それに続く何かがほのめかされている。この見落としは小さくない。前者には、リンゴを贈って素直に感謝されるだろうが、後者には、恐らく別のもののほうが喜ばれるだろう。
ちなみに、文章がうまくなりたいと思う人は、スロー・リーディングしながら、特に好きな作家の助詞や助動詞の使い方に注意することをおすすめする。それでリズムがガラリと変わるし、説得力も何倍にもなる。また、メールのような短い文章を書くときにも、助詞や助動詞への配慮は、相手への印象をまったく違ったものにするだろう。
「は」と「が」の違い、なんていうのは、それこそ、小学校の国語で習うような話ではあるのです。でも、それを的確に使いこなすというのは、かなり難しいことなんですよね。いや、日常生活レベルでは、そこまで考えなくても、大まかな意味は伝わります。僕が拙い英語で名詞を羅列するだけでも、とりあえず「日常会話」としてはアメリカ人に通用するように。
でも、だからこそ逆に「言いたいことの概略は伝わるけれども、ニュアンスが正確に伝わらないような助詞・助動詞の使い方」をしがちなんですよね。まあ、「とりあえず通じればそれでいい」、という人はそれでいいのかもしれませんが、「豪華絢爛な固有名詞や難しい動詞や専門用語」を並べて「名文」を書いているようなつもりになっている人って、けっこう多いのです。
こういうのって、まさに「実作者」として言葉にこだわり、小説を書き続けている平野さんの真骨頂だなあ、と思います。
ある本を読んでみて、ちっとも面白くないと感じることはあるだろう。若くて血気盛んな年頃には、それが世間で高く評価されている本だったりすると、腹さえ立ってくるかもしれない。なんでこんなにつまらない本が持て囃されているんだ!? 許せない! 日本はもうオシマイだ! と、ブログに悪口の一つも書きたくなる。
しかし、その同じ本を、数年経ってふと読み返してみると、どういうわけか、非常に面白いということがよくある。本というのは、そういう不思議な存在なのだ。そして、そうなってみると、妙に熱くなっていた自分が、何となく気恥ずかしく感じられたりするものである。
同じ一冊の本でも、自分がそのとき置かれている状況や意識のあり方で、面白さはまったく違ってくる。学生のときに読んで、少しもその良さが分からなかった本が、社会人になってみると、身に染みてよく分かるだとか、幸せな恋愛をしている頃には、厳しい見方をしていた不倫の小説が、同じ境遇になってみると、涙無しには読めなくなったりと、読後の印象は、決して一貫性のあるものではない。
これを読むと、少なくとも書いている本人にとっては、「ブログに読んだ本の感想を書くこと」は、その感想がポジティブなものでもネガティブなものであっても、「そのときの自分を記録すること」になるのではないかという気がしてきます。結局のところ、「読書」というのは、多くの人との「共通体験」であるのと同時に「極めて個人的な体験」でもあるのですよね。
ブログも含めて、「自分で何かを書いている人、書こうと思っている人」にとっては、ぜひ一度読んでみることをお薦めしたい本です。そして、「自分は本が『読めている』と自信を持っている人」にも一読の価値があるでしょう。「自分がいかに本を『流し読み』していたのか」を思い知らされます。