琥珀色の戯言

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オタクはすでに死んでいる ☆☆☆☆


オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

内容紹介
テレビの企画で、いまどきのオタクたちに対面した著者が覚えた奇妙な違和感。そこから導き出された結論は「オタクはすでに死んでいる」だった。。小さな違和感から始まった思索の旅はやがて社会全体の病にまで辿り着く。自由自在に飛び跳ねる思考の離れ業のダイナミズムを堪能出来る一冊。

 この本、センセーショナルなタイトルがつけられているのですが実際は、『オタクはすでに死んでいる』のではなくて、『オタク(と世間から呼ばれている人たちの間にあった共感や同族意識)はすでに死んでいる」という内容になっています。
 岡田さんが仰るところの「オタク第二世代」にあたる僕には、この本に書かれていることは、すごくよくわかります。

 第二世代というのは、現在の20代終わりから30代半ば過ぎくらいの人たちです。この人たちの青春時代は、前述の宮崎勤や、おたく評論家として一時テレビでもお馴染みだった宅八郎さんのおかげで「おたく」という言葉や概念が一般に浸透した時代でした。そのため、差別されたという苦い思い出を持っている世代でもあります。
 もともとは子供の頃に、マンガやアニメが好きで幸せなはずでした。そこは第一世代と同じです。それなのに、宮崎勤のせいで、親に「あんたもそうじゃないの」と思われ、宅八郎さんが出てきたときに、「あれと一緒にされたらかなわん」と思ったわけです。
 大体、80年代後半から、オウム真理教地下鉄サリン事件を起こした1995年までが青春期だった人たちです。
 ちなみに、私たち第一世代の人間は、宅八郎さんを見て苦々しく思ったりはしませんでした。「一緒にされたらかなわん」どころか、「おお、あんなの出てきたんか、面白い、面白い」と言っていたくらいです。なぜ大らかに見ていられたかについては前述の通り、「世間の理解などハナっから期待していない」からなんですね。
 第二世代のオタクの特徴は「オタク論が大好き」ということに尽きます。彼らにとってオタク趣味とは「生き甲斐」であると同時に、「いつの間にか背負わされた十字架」でもあります。「なんで自分はこんなものが好きなんだ」という問題意識と、それを世間に認めてもらいたい強烈な願望が、オタク論を語る口調を熱くさせるわけです。

 岡田さんは、「オタク」を第一世代〜第三世代に分けておられるのですが(正確には、第四世代についても少しだけ言及されています)、ここで書かれている「第二世代の憂鬱」みたいなものは、僕も体験してきたことでした。
 ただ、第一世代が宅八郎さんを「面白がって」見ていられたというのは、当時の彼らの「年齢」というのも大きかったのではないかな、とも思うんですよ。ある程度の年齢を超えた社会人であれば、周囲との人間関係を自分でコントロールできるのでしょうが、当時学生だった僕たちにとっては、同級生に「お前、宅八郎みたいな『オタク』なんじゃないの?」とみなされることは、まさに「死の宣告」に等しかったわけで。十代、二十代というのは、「他人の目がとくに気になる時期」でもありますしね。

 ここで断っておきたいのは、マンガやアニメやゲームなどの、個々の「オタク作品」が死んだ/ダメになったと言っているのではありません。それぞれの作品は相変わらず存在していますし、それぞれのファンも楽しく生きているわけです。
 では何が「死んだ」のか。
 それは従来のオタクが共有していた共通意識です。それが喪失されたということなのです。
「俺たちオタクだから」と思っている人たちが共通して持っていた意識、共通基盤みたいなものが急激に崩れてきた。先ほど使ったたとえで言えば「みんなが住んでいた『オタク大陸そのもの』が沈んだ」ということでしょうか?
 オタクたちが住んでいた大陸が沈み、いまやオタクたちは「ジャンルごとの避難船に分乗している難民」なのです。
「あれ、俺たちの住んでいるところ、沈んじゃったよ」みたいな、そんな感じがすごくする。アニメとかフィギュアとかミリタリーという、各民族が平和に共存していた大陸がなくなっちゃったなあ、ということです。
「俺たちオタクだから、仲良くやっていこうよ」みたいな感覚や時代が終わってしまったのです。アトランティス大陸がなくなってしまった。

 旧約聖書で例えれば、バベルの塔のようなものです。かつて言葉は一つだった。ところが塔を作ったら神様が怒ってしまった。バベルの塔は崩れて、みんなお互いに言葉が通じなくなってしまった。そして人はバラバラになって、人の心は二度と通じ合わなくなりました。
 かつてオタクは一つだった。ところが、ネットを作りブログができてブームを迎えて「萌え」と言い出した頃から、急速にお互いの言葉が通じなくなった。そしてオタクはバラバラになって……、と似たような話になるわけです。

 ひょっとすると私だけが誤解していたかもしれないけれども、「私たちオタク」という一体感みたいなもの。世間がクリスマスとはしゃいでいるときに「俺たちはコミケがいい」と言って団結できる、そういう「世間から外れたもの同士の仲間感覚」みたいなものがあった。
 今のたとえを使っても「でも俺、コミケ行かないから関係ない」と思わない、そういう意識。
 というゆな、なんとなく共有・共通している文化みたいなものが、なくなってしまっていたのです。

 これを読みながら、僕は自分が中学生の頃を思い出していました。学校って、しばらく通っていると、どうしても「グループ」みたいなのってできてくるじゃないですか。僕の場合、「運動部でバリバリに頑張っている爽やかスポーツ系」にも「不良組」にも「お洒落派」にもシンパシーが湧かず、結局、クラス最小派閥の「オタクグループ」に属していたんですよね。僕は基本的にアニメやマンガ、アイドルにはほとんど興味がない中学生で、当時の趣味といえば歴史とマイコンゲームでしたから、そのグループ内では、かなり浮いた存在だったと思います。それでも、僕はそのグループの人たちと話をあわせて「学校で生き延びるために」アニメもある程度は観ましたし、マンガもそれなりには読みました。そこにしか「居場所」がなかったから。正直、『クリーミーマミ』とかは、全く理解不能だったのだけど。ああいう場所では、「体育の時間に、キャッチボールをしてくれる相手がいない」っていうのは、けっこう辛いものだしさ。「オタク」って言われても、自分の身の丈に合わない「体育会系グループ」に入るより、よっぽど居心地もよかったし。
 そういう時代に比べると、いまの「オタク趣味の人」には、確実に恵まれているところはあると思います。
 少なくとも、僕の中学時代に比べたら、「オタク趣味」=宮崎勤、みたいなイメージを持つ人も減ってきたし、芸能人もオタクを売り物にしている人がいますしね。
 ただ、いまの中学校や高校での彼らの「居場所」がどんな状態にあるかっているのは、僕には実感できないのだけど。

 こうして「オタク」がある程度社会的に認知されてみると、たしかに「お前はアニメで俺はミリタリーだけど、どっちも被差別民族だし、お前の『みんなに理解されないようなものが好き』っていう感情は理解できるから、せめてお互いに助け合おう」なんていう気持ちが薄れてくるのは仕方ない面はあるのでしょう。というか、「外圧」がなくなれば、もともと「ちょっと違うけど生き残るためには仕方ない」という理由での団結がゆるむのは、むしろ自然です。

 僕は、そういう「オタク大陸の消失」の原因のひとつに、ネットの力もあると考えています。
 ネットっていうのは、「かなり特殊な趣味でも、けっこう簡単に『趣味の合う仲間』を見つけ出せる」とても便利なツールなんですよね。
 だから、「生き延びるために、趣味が合わない人を妥協して受け入れる必要性」そのものが薄れてしまったのではないかと。
 それは、「オタク趣味の人間」にとっては、「生きやすい世の中」になったということなのですが、だからこそ、オタクの中で、共通の趣味を持つはずの仲間の中でも、かえって「自分は他の連中とは違う」という「差別化したいという意識」も強まっているような気がします。

 岡田さんもこの本のなかで同じようなことを仰っておられるのですが、実は、こういう「オタクの変化」って、「世界のなかの日本人」そのものなのかもしれないな、と僕は感じます。「日本人同士だから、助け合わなくちゃ」なんて、僕の世代では、全然考えないですしね。よっぽど日本人が珍しい外国にでも行けば、別なのかもしれませんが。

 「第一世代オタク」の代表である岡田斗司夫さんの「昔はよかったという愚痴」だとも思われますし、現在10代の「オタク」たちが読んでも共感しにくい本でしょう。でも、「オタク黎明期を生き延びた男の遺言」として、「こういう時代があった」ということを知っておくのは、それなりに価値があるのではないかと。

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