琥珀色の戯言

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ゼア・ウィル・ビー・ブラッド ☆☆☆☆☆


『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』公式サイト

解説:マグノリア』『パンチドランク・ラブ』のポール・トーマス・アンダーソン監督の最高傑作との呼び声も高い、石油採掘によってアメリカン・ドリームをかなえた男の利権争いと血塗られた歴史を描いた社会派ドラマ。原作は1927年に発表された、社会派作家アプトン・シンクレアの「石油!」。『マイ・レフトフット』のオスカー俳優ダニエル・デイ=ルイスが、冷徹な石油王が破滅していくまでを熱演。人間の計り知れない欲望や恐怖を、改めて思い知らされる。(シネマトゥデイ


あらすじ:石油採掘によって莫大な富と権力を得た一介の炭鉱労働者ダニエル・プレインビューは、さらなる鉱脈を求め息子のHWとともにカリフォルニア州リトル・ポストンへ向かう。そこは不毛の地で、街の人々はカリスマ的な神父イーライ・サンデーが主宰する教会にのみ頼って生きていた。幸運にも再び油田を掘り当てたプレインビューだったが、そのあまりに旺盛な欲望と欺瞞に満ちた心は、闘争を引き起こし、さらには人々の価値、希望、信用、そして親子の絆さえも脅かしていく。(Variety Japanのアカデミー賞特集より)

 この作品を観終えたとき、僕はすっかり疲れ果ててしまいました。観ているときは、158分の「長さ」は全然感じなかったんですけどね。
 この映画の批評や感想として、「欲望にまみれた男(石油王ダニエル・プレインビュー、そして神父イーライ・サンデー)の破滅の映画」だというものをいくつか見かけたのですが、僕にとってのこの映画は、そんな単純な「盛者必衰」「勧善懲悪」の物語ではありませんでした。
 そもそも、この作品には「善なるもの」がほとんど出てきません(あえて言うとすれば、搾取されてばかりのリトル・ボストンの人々や大きなトラブルを抱えて成人したあとのHWくらいでしょうか)。
 「金銭欲」「権力欲」「名誉欲」に駆られた男たちと、彼らにいいように利用されてばかりの「善良な市民」。
 これを観て、「結局、ダニエル・プレインビューは不幸な男だったのです」なんて単純に考えられる人ばかりなのでしょうか?

 「だから、お金持ちになんてならないほうがいいんだよ」なんていう話では、絶対に無いと思うんですよ僕は。

 この映画、とくに、ダニエル・プレインビューの人となりを観て、僕はある知人のことを思い出しました。
 彼は非常に有能な男であり、「父親・母親世代に愛される男」だったのですが、同級生からのウケは、どうも今ひとつだったんですよね。
 なぜかというと、彼は、「真面目すぎた」から。
 仕事を終えて仲間内で飲みに行こうという話になってもほとんどつきあわずに勉強し、患者さんが入院したその日に退院時の書類が8割方完成し、どんなに忙しくて上の先生に仕事を押し付けられてもちゃんと専門の資格を取っていき……あまりにしっかりしすぎていて、同僚としては、「付き合いづらい」というのが僕の彼に対する本音でした。

 でも、ある飲み会の席で、「お前は真面目すぎるよ」と絡んだ僕に、彼はこんなことを僕に言ったのです。

 いや、俺ががむしゃらに勉強したり、資格を取ったりするのは、「怖いから」なんだよ。仕事でも、資格でも、書類書きでも、とにかくさっさとすませてラクになりたいんだ。俺は基本的に不真面目で、勉強も仕事も全然やりたくない。でも、だからこそ、今のうちに、こうやって勉強しておかないと不安なんだよ。今やらないと、いつ自分が「切れて」しまうかわからないから。

 ダニエル・プレインビューは、まさに彼のような男ではないかと思うのです。
 彼は劇中で、「金をたくさん稼いで、他人と関わらずに生きていけるようになりたい」と述懐します。このシーン、個人的には「登場人物によるテーマ語り」にしか思えなくて蛇足に感じるのですが、こういう「わかりやすいシーン」があえて入れられている理由というのは、監督や脚本家が、ダニエル・プレインビューという男の「矛盾」を描きたかったからだという理由に尽きるのではないでしょうか。
 僕たちは、「勤勉」というのは、「人の役に立ちたい」とか「偉くなりたい、尊敬されたい」というようなポジティブな動機から生み出されるものだと考えがちだけれども、実際は、「不安から逃れるための勤勉」というのも確かに存在するのです。
 ダニエルと対の存在として描かれる神父(宣教師)イーライ・サンデーは、自分の名誉欲や金銭欲をコントロールしきれないまま、「それでも私は神を信仰している」という大義名分にすがらざるをえない人物です。本当は「私が神だ」と言いたいのに、彼の倫理観とインテリジェンスはそれを是としない。彼はダニエルの野蛮さを嫌っている一方で、「私は石油屋だ」と大声で宣言し、野卑な言動を恥じることもないダニエルのことを羨ましくも感じています。
 結局のところ、彼らは二人とも「欲望の化身」なんかじゃなくて、「自分の弱さや不安を抑えきれず、かといって人生をサボタージュすることもできなかった不器用な人間」でしかないんですよね。ダニエルはイーライの「偽善」を、イーライはダニエルの「拝金」を軽蔑していますが、それは、彼らの置かれた環境による違いでしかなくて、環境が入れ替わっていれば、ダニエルが宣教師になっていたり、イーライが石油王になっていても全然おかしくないように僕には思われます。
 彼らは「幸福」とか「不幸」じゃなくて、「そういうふうにしか生きられない人間」だったのでしょう。

 これ以上書くとネタバレになってしまうのでこのくらいにしておきますが、これほど「普通の人間として生きることを受け入れられないというカルマ」みたいなものを重厚に描いた作品は、めったに観られません。
 けっして「面白い」映画ではないですし、観終えたあとには、何のカタルシスもなく、鉛玉を飲まされたような「重苦しさ」が残る作品なのですが、これほど「映画らしい映画」っていうのは、本当に稀有な存在です。
 正直、「神」を持たない僕がこの作品を本当に理解できているかは自分でも疑問なのですが、今わからなくても、いつか「この映画を観ておいたこと」の意味を感じられるような気がします。
 
 この感想を読んで興味を持たれた方、そして、『アビエイター』を観て面白いと感じた方にはとくにオススメします。
 それにしても、ダニエル・デイ=ルイスの凄いところは、「すばらしい演技」というより、「本人が出演している」ようにしか思えないところですね。個人的には、大好きな役者さんなので、もうちょっと頻繁に仕事してほしいな、とも思うのですけど。

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