- 作者: 小林多喜二
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1954/06/30
- メディア: ペーパーバック
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【あらすじ】
カムチャツカの沖で蟹を獲りそれを缶詰にまで加工する蟹工船「博光丸」。それは様々な出自の出稼ぎ労働者を安い賃金で酷使し、高価な蟹の缶詰を生産する海上の閉鎖空間であり、彼らは自分達の労働の結果、高価な製品を生み出しているにも関わらず、蟹工船の持ち主である大会社の資本家達に不当に搾取されていた。情け知らずの監督者である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは懲罰という名の暴力や虐待、過労と病気(脚気)で倒れてゆく。初めのうちは仕方がないとあきらめる者もあったが、やがて労働者らは、人間的な待遇を求めて指導者のもと団結してストライキに踏み切る。しかし、経営者側にある浅川たちがこの事態を容認するはずもなく、帝国海軍が介入して指導者達は検挙される。国民を守ってくれるものと信じていた軍が資本家の側についた事で目覚めた労働者たちは再び闘争に立ち上がった。
「文庫版が40万部も売れた!」と話題になっている『蟹工船』、僕もはじめて読んでみました。この作品、日本史の授業で、「1929年に発表された『プロレタリア文学』の代表作。作者の小林多喜二は「特高警察」の弾圧によって拷問死」という「背景」は習ったのですが、その内容を読んだことはいままで一度もなかったんですよね。
というか、僕はこの作品を「プロレタリアート万歳! マルクス万歳! ロシア万歳!」というアジテーションが延々と続くような「政治的な小説」だとずっと思っていたのです。
でもね、読んでみると、『蟹工船』では、「酷使されている漁夫たちの姿」がものすごくリアルに描かれていますし、『党生活者』では、「マルクス主義者への賛美」というより、「当局から隠れて『運動』をすすめていく人間の姿」が、その「ずるいところ」「人間としての情に欠けるところ」も含めて冷徹に描かれています。僕は『党生活者』のほうが、より「面白い」と感じたのですが、これってまさに「スパイ小説」というか、フォーサイスみたいなんですよ本当に。小林多喜二という人は、漁夫たちを「無垢な被害者」として描くこともなく、党生活者たちを「聖人」として描くこともない、どちらも、欠落したところの多い「人間」として遠慮なく描いているのです。
この小説がずっと読み継がれてきたのは、「政治的主張」のためではなく、「面白い小説」だったからなのだと僕は思います。いま読んで、「読みやすい」かと問われたら、慣れるまではちょっと読みにくいのは事実なんですが。
彼が直りかけて、うめき声が皆を苦しめなくなった頃、前から寝たきりになっていた脚気の漁夫が死んでしまった。――二十七だった。東京、日暮里(にっぽり)の周施屋から来たもので、一緒の仲間が十人程いた。然し、監督は次の日の仕事に差支えると云うので、仕事に出ていない「病気のものだけ」で、「お通夜」をさせることにした。
湯灌(ゆかん)をしてやるために、着物を解いてやると、身体からは、胸がムカーッとする臭気がきた。そして無気味な真白い、平べったい虱(しらみ)が周章(あわ)ててゾロゾロと走り出した。鱗形(うろこがた)に垢(あか)のついた身体全体は、まるで松の幹が転がっているようだった。胸は、肋骨(ろっこつ)が一つ一つムキ出しに出ていた。脚気がひどくなってから、自由に歩けなかったので、小便などはその場でもらしたらしく、一面ひどい臭気だった。褌(ふんどし)もシャツも赭黒(あかぐろ)く色が変って、つまみ上げると、硫酸でもかけたように、ボロボロにくずれそうだった。臍(へそ)の窪(くぼ)みには、垢とゴミが一杯につまって、臍は見えなかった。肛門の周(まわ)りには、糞がすっかり乾いて、粘土のようにこびりついていた。
「カムサツカでは死にたくない」――彼は死ぬときそう云ったそうだった。然し、今彼が命を落すというとき、側にキット誰も看(み)てやった者がいなかったかも知れない。そのカムサツカでは誰だって死にきれないだろう。漁夫達はその時の彼の気持を考え、中には声をあげて泣いたものがいた。
湯灌に使うお湯を貰いにゆくと、コックが、「可哀相にな」と云った。「沢山持って行ってくれ。随分、身体が汚れてるべよ」
お湯を持ってくる途中、監督に会った。
「何処へゆくんだ」
「湯灌だよ」
と云うと、
「ぜいたくに使うな」まだ何か云いたげにして通って行った。
この本がいま「売れている理由」として、現代の「ワーキングプア」「派遣社員の待遇」などの問題とリンクしているのではないか、という見方がされているようですし、たしかに、そういう面はあるのでしょう。
ただ、僕はこの作品に、そんなふうに安易に「共感」してしまってもいいのか、という気持ちもあるのです。
僕はこの本を読みながら、先日の秋葉原の事件の被害者の相談に乗っているカウンセラーが、
「実際の犯人のことを知らない人たちが『自分も犯人と同じ』という言葉を使う」
「違いを一人一人が自覚することが大事」
とネット上などで、「犯人への共感」を示している人たちに警鐘を鳴らしていたのを思い出しました。
この『蟹工船』で搾取されている漁夫たちと、現代の「ワーキングプア問題」には、たしかに「共通点」もあります。
でも、この『蟹工船』の時代に比べたら、いまの労働者(少なくとも若者たち)は、はるかに「状況を改善するための方法」を持っているはずなんですよね。だから、「昔もこうだったからしょうがないんだ」と「同じ」である点に溺れてしまうのではなくて、「違う」ところを探し出して、うまく利用していくべきなのだと思います。
しかし、僕たちは歴史的知識として、「でも、結局この『党生活者』たちは、敗北する」ということを知っています。その理由は、少なくともソ連においては、「プロレタリアートの利益を代弁する」はずの指導者層の腐敗であったことも。
そういう意味では、この『蟹工船』に関しては、リアルタイムで読んでいた人のほうが、まだ「希望を感じる作品」ではあったのかもしれませんね。
やっぱり、いま読むと「でも、どうせこの人たちは『負ける』んだよな……」と考えてしまいますから。