琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

「本を読んできたこと」の意味


本を読まない人間
↑のエントリを読んでの感想。

 僕は物心ついたときからたくさん本を読んできましたが、高校生くらいまでは、ものすごく疑問だったんですよ。
 いわゆる「お年寄り」がなぜ本を読むのだろう?って。
 だって、死が迫ってきても新しい知識を得ようとするのって、無駄じゃないとしても効率が悪いじゃないですか。恋愛小説を読んでも、それが「活かせる」とは限らないし……
 まあ、年を重ねるにつれ、「再確認するための読書」というものの存在もわかるようになってきましたし、本を読んで泣いてしまう機会も増えてきました。

いわく、「実体験から積み上げたものじゃないと信用できないよ」

これはどうかと思う。ただ、生活に生かせない読書をしてもしょうがない、というのであれば、まあ一理あるかもしれない。

 寺山修司的に言えば、「書を捨てよ、町に出よう」というのが「正しい」のだと僕も考えていた時代があったのですけど、「読書」と「人生経験」というのは、けっして「対立するもの」ではないんですよね。
 ひらたく言えば、「読書もまた、人生経験のひとつ」でしかありません。
 「読書」というのは、ある意味「人生経験」を補完するものであり、「人生経験」というのもまた、「読書の愉しみ」を補完(ときには減弱)させるものなのではないかと思うのです。

 森博嗣さんが、こんなことを書かれています。

「僕の夢 君の思考」(森博嗣著・PHP文庫)より。

(森さんが書かれた作品の中から印象に残るフレーズを編集者が抜き出し、そのフレーズに森さん自身がコメントを付けられたものです。)

【どうして変化に対して人は臆病になるのだろうか、と考える。そんなことを考える自分を自覚して驚く。きっと、失敗したとき元どおりに戻れない、という心配(あるいは予測)があるからだろう。結局のところ、失敗の大きさをどう見積もるか、にすべての判断が帰着するように思える。しかし、人はどんなときでも後戻りはできないのだから、永遠に真の答など得られない。〜『恋恋蓮歩の演習』(88頁)

このフレーズに対する、森さん自身のコメント
 経験できるのは、僅かに自分の人生一回だけだ。他人の人生も、自分の別の人生も、無理。人生経験が豊かな人というのは、基本的に嘘である。

 僕は自分の人生が厭になったとき、この森さんの言葉を思い出すようにしています。
 僕は「本ばかり読んで、他のことをしなかった」のでも、「恋愛経験に乏しかった」のでもなく、「本を読むという経験」「ひとりでいること、あるいはひとりの異性とずっと付き合い続けるという経験」を自分で選択してきたのだ、と。
 それは、誇るべきことでもないけど、別に自分を蔑むようなことでもないんですよね。
 もちろん、犯罪行為や人倫にもとる行為まで「それもひとつの人生経験」と肯定する気はさらさらありませんが。

 僕が本を読んで、もっとも「良かったなあ」と感じているのは、(それが「頭の中だけ」だったとしても)世の中にはいろんな人がいるのだ、ということを理解できたことです。
 そんなのは、直接触れてみたほうが早いし、効率的だ、と言われるのは承知の上なのですが、人と接するのが苦手にもかかわらず、人と接することを避けられない仕事を選んでしまった僕にとっては、本で「予習」しておいたことのおかげで(そして、本だけではなくて、大学の部活で実体験したことも多かったです)、社会に出て接することになった「いろいろな人間」に対する「驚き」や「嫌悪感」が緩和されたんですよね。
 本から得た知識や感覚というのは、実体験に比べるとはるかに「薄い」し「偏っている」のかもしれないけれど、それでも、人間や物事の「多様性」を認識するのには、とても役に立ったと思います。どんなにがんばっても、ひとりの人間が「実体験」できることなんて、微々たるものだから。
「実体験しか信用しない人」というのは、類型的に描くと、どんな物事に対しても「オレの経験では〜」という話しかできない人で、そういう人の話は、ひとつの参考にはなるけれど、あまり普遍性は感じられません。逆に、何の話をしても「でも、世の中にはこんな考え方もあって……」と知識を延々とひけらかして他人の話を否定するばかりの人もいて、こういう人に対しては、「じゃあ、お前自身はどう考えているんだ!」といらだってしまいこともあります。飲み会とかでは、どちらも「隣に座ってほしくない人」ではありますね。
結局は、「バランス感覚」が重要であり、これは「人生経験」だけでなく、「本を読むこと」からでも、あるいはその両者を組み合わせることで、学べることのはずなのですが、その一方で、ミスチルの歌みたいに

♪さまざまな角度から 物事を見ていたら 自分を見失ってた

 というような感覚も僕にはあるのです。


 本って、読めば読むほど、それが「勉強」だとは思えなくなってきますよね。
 というか、同じ「読書」でも、「知識を増やすため」「考えた方を学ぶため」「自分の感情を刺激するため」「時間の隙間を埋めるため」と、いろんな読みかたがありますし。

 ただ、最近ちょっと不安なのは、ネットのおかげで「本の感想を共有する愉しみ」ができた代わりに、「話題になりそうな本」「誰かと感想を共有できそうな本」に僕の読書傾向が偏ってきているように感じることなんですけどね。コミュニケーション・ツールとしての読書は、愉しいけれどなんだかとても自分に嘘をついているような気がするのです。


 僕はとりあえず本に感謝しています。
 「本の世界」が無かったら、内向的でスポーツ弱者だった子供の頃の僕は、どうやって大人になるまでの時間を潰したらいいのかわからなかったと思うから……
 

参考リンク:「知識」と「人生経験」(琥珀色の戯言)

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